2025年8月、フィナンシャル・タイムズ紙の一報が日本の広告業界を揺さぶった。電通グループが海外事業の売却を検討しているというニュースは、単なる資産処分ではなく、長年掲げてきた「グローバル広告コングロマリット」という野望に対する根本的な戦略見直しを意味するものとして受け止められた。報道直後、株価は急騰し、市場はこの動きを「前向きな戦略的転換」として歓迎した。
背景には、国内事業と海外事業の間に横たわる深刻な業績格差がある。日本国内の事業は高収益を維持し続けてきた一方、2012年に買収した英イージス・グループを中核とする海外事業は、売上規模こそ大きいものの低収益性から抜け出せず、巨額の減損やリストラを繰り返してきた。
売却の行方を左右するのは、PEファンドを中心とした買い手候補の動きだ。過去にはWPPやADKの事例もあり、今回の取引も業界全体の再編を加速させる可能性がある。電通にとってこれは「敗北」ではなく、むしろ日本市場への再集中を通じた戦略的リセットとも解釈できる。果たしてこれは、電通再生への第一歩なのか、それともグローバル戦略の終焉なのか。
対象企業 | 買収企業 | 発表年 | 取引価値 (億ドル) | 評価倍率 (EV/EBITDA) |
Kantar (60%株式) | Bain Capital | 2019 | 約 40 | 8.2x |
ADK Holdings | Bain Capital | 2017 | 約 13.5 | N/A |
Epsilon | Publicis Groupe | 2019 | 約 44 | N/A |
Interpublic Group (IPG) | Omnicom Group | 2025 (予定) | 約 230 | N/A |
変革の引き金:FT報道と市場の熱狂
フィナンシャル・タイムズの報道がもたらした衝撃
2025年8月28日、英フィナンシャル・タイムズ紙が報じた電通グループの「海外事業売却検討」は、日本の広告業界のみならず金融市場全体を揺さぶった。報道によれば、電通は三菱UFJモルガン・スタンレー証券と野村證券をアドバイザーに指名し、潜在的な買い手を探るプロセスに着手したとされる。検討の範囲は少数株の売却から完全撤退まで多岐にわたり、年末までに計画を固める可能性があると伝えられた。
電通側は公式声明で「当社が発表したものではない」と前置きしつつも、「企業価値向上に向けてあらゆる選択肢を検討中」とコメント。憶測を完全には否定せず、実質的に戦略見直しの可能性を認めた。この「含みを持たせた対応」は、企業法務の定石であると同時に、市場に対して一定のメッセージを投げかけることとなった。
株価の急騰と投資家の評価
市場はこの報道を即座に肯定的に受け止めた。翌日の東京株式市場で電通株は急騰し、一時プライム市場の値上がり率トップに躍り出た。具体的には前日比247円高(9.0%増)の3,007円をつける場面があり、数十億ドル規模の売却益期待が一気に株価を押し上げた。
しかし投資家の評価は単なる資金調達への期待にとどまらない。長年「重荷」とされてきた海外事業への抜本的なメスが入ることを歓迎し、企業戦略全体のリセットが可能になるとの見方が強まった。事業売却のニュースが株価上昇につながるのは異例だが、それは投資家が海外事業をむしろ企業価値を毀損する存在と見なしていた証拠でもある。
投資家心理の変化
これまでの決算で海外部門の低迷は繰り返し示されてきたため、不振そのものは市場の既知の事実だった。新たに注目されたのは「経営陣がついに抜本的改革に踏み出す決断を下した」点である。株価急騰は、縮小ではなく戦略転換としての前向きな評価の表れであり、投資家にとってはシンプルで収益性の高い電通への変貌が歓迎された格好だ。
要するに今回の報道は、電通が掲げてきたグローバル広告コングロマリットという野望の見直しを意味しつつも、同時に株主価値の再生への期待感を呼び込んだのである。
国内と海外の業績格差が突きつける現実

日本市場における強固な牙城
電通ジャパンはグループ全体の収益を下支えする「稼ぎ頭」として機能してきた。2025年上半期には過去最高のネットレベニューと営業利益を達成し、9四半期連続の成長を記録。営業利益率は20%台半ばを維持し、海外部門を大きく上回る高収益体制を築いている。
日本国内の広告市場は成熟しているにもかかわらず、電通はメディアとの強固な関係性や圧倒的な営業力を背景にシェアを維持。さらにデジタル広告やDXコンサルティング領域での成長も重なり、利益率を安定的に確保している。
海外部門の慢性的低収益
一方、海外事業は対照的な結果に苦しんでいる。米州、欧州・中東・アフリカ(EMEA)、アジア太平洋(APAC)の主要地域すべてでオーガニック成長率がマイナスに転落。米国や英国、中国といった主要市場でも減収が続き、利益率は10%前後にとどまっている。
特に2024年度には海外全体で2,101億円もの巨額減損を計上し、2025年第2四半期にも860億円の追加減損が発生した。これは過去の買収、特に2012年の英イージス買収に伴う「のれん」が十分に利益で裏付けられなかったことを意味する。
国内・海外の比較データ
会計年度 | セグメント | ネットレベニュー(億円) | オーガニック成長率(%) | 営業利益(億円) | 営業利益率(%) |
---|---|---|---|---|---|
2024年 | 日本 | 4,797 | 4.0 | 1,029 | 21.5 |
2024年 | 海外 | 7,096 | -2.9 | 733 | 10.3 |
2023年 | 日本 | 4,557 | 1.4 | 933 | 20.5 |
2023年 | 海外 | 6,739 | -4.9 | 702 | 10.4 |
この表が示す通り、日本事業が高収益を維持する一方、海外事業は規模を拡大しても利益が追いつかず「規模と収益の乖離」が構造的に続いてきた。
財務的負担とリストラの連鎖
不振の影響は財務にも直撃している。海外事業では2025年に約3,400名の人員削減を発表し、270億円のリストラ費用を計上予定。のれん減損と構造改革費用の重圧は、グループ全体の資本効率を低下させてきた。
国内外の鮮明な格差は、海外戦略の見直しを促す最大の要因である。電通が海外事業売却に踏み切る背景には、この「収益性の断絶」という動かし難い現実が横たわっているのである。
イージス買収の遺産と統合の失敗

2012年の歴史的買収
電通が海外展開を本格化させた転機は、2012年の英イージス・グループ買収であった。約4,000億円規模という、日本の広告会社としては前例のない巨額投資によって、欧州・米州での基盤確立とデジタル領域の強化を狙った。当時、CaratやIsobar、iProspectといった成長著しいブランドを手中に収めたことで、電通は名実ともに世界第5位の広告グループに躍り出た。
この買収は「日本発の広告持株会社が欧米大手と肩を並べる」象徴的な挑戦と評価された。しかしその後の10年以上にわたり、電通はこの巨額投資を十分に収益化することに苦しみ続けた。
統合プロセスの壁
買収後の最大の課題は、文化とオペレーションの統合であった。電通は国内事業と海外事業を長らく二元体制で運営し、日本本社と海外現地法人の間に深い溝が残った。業界アナリストからは「東京本社は海外市場の動向に十分精通していなかった」との指摘もあり、戦略的な意思決定が現場に適切に浸透しなかった。
後に導入された「One dentsu」モデルは、この分断を解消する試みだったが、結果的に日本主導の中央集権体制が強まり、欧米市場に即した柔軟な経営が難しくなった。現地の多様性を尊重するどころか、グローバルな俊敏性を損なう結果となり、シナジー創出は限定的にとどまった。
リーダーシップ交代の象徴性
さらに、2022年には電通インターナショナルのCEOであるウェンディ・クラーク氏が退任し、東京本社主導の「One Management Team」体制へ移行した。欧米業界に精通したリーダーを登用しながらも、その方向性を途中で放棄したことは、電通がグローバル経営の試みに失敗したことを象徴している。
結果として、イージス買収は売上規模を拡大させる一方で、利益率改善や企業文化の融合といった本来の目的を果たせなかった。その「遺産」は今なお巨額ののれん減損として残り、売却検討の背景を形作る大きな要因となっている。
売却スキームの行方:PEファンドが描くシナリオ
複数の売却オプション
今回の売却検討で注目されるのは、そのスキームの幅広さである。完全撤退から少数株の売却、さらにはCXM事業のマークルを切り離して部分的に売却するケースまで選択肢は多岐にわたる。戦略的パートナーとの資本提携を維持するか、もしくは完全に手を引き国内集中へ転換するかで、電通の将来像は大きく変わる。
PEファンドの存在感
最有力候補と見られているのはプライベートエクイティ(PE)ファンドだ。彼らは過小評価された資産を取得し、徹底的なコスト削減や事業改革で再生させた上で、分割売却や再上場を通じて利益を確保する戦略を得意とする。過去にはベインキャピタルがWPPのデータ分析子会社カンターをEBITDAの8.2倍で買収した例があり、同様のシナリオが電通の海外事業でも想定されている。
PEファンドによる買収後の典型的な流れは以下の通りである。
- 高収益のCXM事業(マークル)を切り出し、コンサルティングやテクノロジー企業に高値で売却
- 地域ごとの広告エージェンシー網を分割し、スタッグウェルのような中堅持株会社に譲渡
- 収益改善後にIPOまたは戦略的買い手へ転売
このようにして投資回収を最大化するのが定石だ。
戦略的買い手の難しさ
一方で、WPPやピュブリシスといった競合大手が買収に動く可能性は低い。既存顧客との利益相反や統合の複雑さが障壁となり、規模の大きな海外事業をそのまま引き受けるインセンティブは乏しい。
したがって、現実的なシナリオはPEファンドへの一括売却であり、その後の「解体と再編」を経て電通インターナショナルは消滅に向かう可能性が高い。
取引規模の目安
市場関係者によれば、海外事業のネットレベニューは45億ドル超に達しており、取引規模は数十億ドルになる見込みだ。ただし低収益性を考慮すれば、評価倍率は過去の事例を下回る可能性がある。
このスキームが成立すれば、電通は「不採算資産の切り離し」を果たし、国内市場に資源を集中することになる。一方で、買収したPEファンドにとっては、分解と再編による価値創造の格好のターゲットとなる。
変貌する広告業界

コンサル勢力の台頭と競争環境の激変
近年の広告業界は、従来の「ビッグ4」(WPP、ピュブリシス、オムニコム、IPG)だけでは語れない構造へと変貌を遂げている。象徴的なのがアクセンチュア・ソングの存在である。クリエイティブとコンサルティングを融合させ、事業変革そのものを支援するモデルは、多くの広告主にとって魅力的な選択肢となっている。
加えて、デロイトやPwCといったコンサルティング大手もデジタル・マーケティング領域を強化し、従来型の広告代理店ビジネスを侵食している。電通が海外市場で直面した苦戦の背景には、このような「広告業界の地殻変動」がある。
技術革新とクライアントニーズの変化
生成AIの普及は、コピーライティングやバナー制作、メディアプランニングといった従来人間が担ってきた領域を急速に自動化している。調査会社ガートナーは「2027年までに広告制作業務の3割がAIによって代替される」と予測しており、従来型のエージェンシーモデルは大きな転換点を迎えている。
さらに、クライアントの要求は単なる広告キャンペーンにとどまらず、データを基盤とした成果志向型のマーケティングへとシフトしている。CXM(顧客体験マネジメント)を含む包括的なサービスを求める声は強まり、広告代理店にはデータ分析力やテクノロジー導入力が不可欠になった。電通の海外事業が十分に対応できなかった点は、この成長分野での遅れにあった。
再編と淘汰の波
業界全体では、再編の波が止まらない。オムニコムとIPGの合併計画は、規模を追求するレガシープレイヤーの典型例であり、一方で独立系のクリエイティブエージェンシーは特定分野に特化して生き残りを図る。
この二極化が進むなか、電通インターナショナルは「中途半端な中間層」に位置していた。十分なスケールを持たず、かつ専門性でも抜きん出られない構造的弱点を抱えていたため、競争力を失いつつあった。今回の売却検討は、この業界構造の中で生き残るために避けられない選択とも言える。
電通の未来:戦略的リセット
国内市場への再集中
海外事業売却によって得られる最大のメリットは、低収益事業から解放されることだ。電通は国内市場で依然として圧倒的なシェアと利益率を誇っており、経営資源を集中させることで新たな成長投資に踏み切る余力が生まれる。例えば、国内におけるデジタルトランスフォーメーション支援やコンサルティング領域の強化である。
国内市場における収益性の高さは明確であり、2024年度の営業利益率は20%超。海外の10%前後と比べて倍近い水準を維持している。この「選択と集中」によって、株主からの評価も高まる可能性がある。
部分的なグローバル展開の継続
もっとも、売却が即「完全撤退」を意味するわけではない。自動車や化粧品といった日系大手クライアントの海外事業をサポートするため、アジア市場では「dentsu」ブランドを残す可能性が高い。グローバルな拡大戦略から、日系企業支援を主軸とする焦点の定まった国際戦略への転換だ。
この方針は、欧米市場でのシェア争いを放棄する一方、アジアにおける日系クライアントのパートナーとして地位を固める狙いがある。
株主価値へのインパクト
電通が掲げる中期経営計画では、2027年度までにROEを10%台半ばに高める目標が設定されている。海外事業という「重石」を外すことで、この目標達成は現実味を帯びる。資本市場においては、売上規模よりも収益性と安定性が重視されるため、投資家にとっても歓迎すべき変化となるだろう。
加えて、今回の売却は「日系広告会社が欧米モデルを模倣してグローバル競争に挑む」試みの終焉を示す可能性がある。電通の事例は、日本企業が自国市場での強みを武器にする戦略の方が持続可能であることを示唆している。
電通が下す決断は、単なる一企業の方向転換ではなく、日本広告業界全体にとっての歴史的な分岐点となるだろう。
まとめ
電通グループが検討する海外事業の売却は、単なる資産処分ではなく、長年追求してきたグローバル戦略を根本から見直す歴史的な決断である。国内と海外の業績格差、イージス買収後の統合の難航、そして業界全体の構造変化という複数の要因が重なり、戦略的なリセットを迫られた格好だ。
市場はこの動きを、縮小ではなく前向きな「選択と集中」と評価しており、株価の急騰にもそれが表れている。売却によって電通は国内事業に経営資源を集中できるだけでなく、収益性や資本効率の改善も期待される。
今後の焦点は、売却スキームの具体化とPEファンドを中心とした買い手の動向である。もし解体的な再編が進めば、電通インターナショナルという存在は姿を消し、日本市場を軸とした新しい電通が生まれることになる。
電通の選択は、日本企業がグローバル市場でどう生き残るかを問い直す象徴的なケースとなる。欧米の巨人と対等に競うのではなく、自国市場での強みを磨き上げ、アジアを中心とした地域戦略に軸足を置く。その方向性が、今後の日本広告業界における持続可能なモデルを示すことになるだろう。
出典一覧
- フィナンシャル・タイムズ「Dentsu Group Considers Selling Overseas Operations」
https://www.nippon.com/en/news/yjj2025082800990/ - MediaPost「Dentsu Weighs ‘International’ Sale」
https://www.mediapost.com/publications/article/408574/dentsu-weighs-international-sale.html - 埼玉新聞「電通、海外事業の売却を検討 FT報道、競合他社などに」
https://www.saitama-np.co.jp/articles/155773 - ダイヤモンド・オンライン「電通グループ—大幅反発、海外事業の売却を検討と伝わる」
https://diamond.jp/zai/articles/-/1055516 - 東洋経済オンライン「電通を襲った再びの悪夢、「世界進出」の落とし穴」
https://toyokeizai.net/articles/-/861228?display=b - 電通グループ「FY2024 Consolidated Financial Results」
https://www.group.dentsu.com/en/news/release/pdf-cms/2025006-0214en.pdf - Seeking Alpha「Dentsu Group Inc. (DNTUF) Q2 2025 Earnings Call Transcript」
https://seekingalpha.com/article/4813734-dentsu-group-inc-dntuf-q2-2025-earnings-call-transcript - WPP「Proposed sale of 60 percent of Kantar」
https://www.wpp.com/en/news/2019/07/proposed-sale-of-60-percent-of-kantar - AdNews「Wendy Clark on leaving dentsu」
https://www.adnews.com.au/news/wendy-clark-on-leaving-dentsu