グローバル企業を取り巻く経営環境は、かつての安定的なグローバリゼーションの時代から大きく様変わりしました。経済ナショナリズムの台頭や大国間競争の激化、規制の不確実性といった要素は、もはや一時的な混乱ではなく、企業にとって恒常的な「ニューノーマル」となっています。PwC Japanの最新調査によれば、日本企業の経営層の82%が地政学リスクの高まりを深刻に認識しており、その影響はサプライチェーンから市場アクセス、ブランド戦略にまで及んでいます。
こうした状況下で、単なる事後対応型のリスクマネジメントでは限界が明らかになりつつあります。必要とされているのは、将来を予測し、脅威が顕在化する前に先手を打つ「プロアクティブ・インテリジェンス」の能力です。その代表的な事例として注目されるのが、サントリーホールディングスの戦略です。同社はトランプ政権下での関税リスクを先読みし、迅速に対応策を講じたことで知られています。その背景には、独立した「情報部隊」ではなく、ガバナンス全体に埋め込まれたインテリジェンス機能が存在していました。本記事では、サントリーの事例を軸に、日本企業が地政学リスク時代にどのように先見性を組織的に涵養すべきかを深掘りします。
地政学リスクの常態化が企業経営に迫る新たな課題

近年、企業経営を取り巻く環境は大きな変容を遂げています。かつてのグローバリゼーションは、ある程度の予測可能性を前提として事業戦略を描くことが可能でした。しかし、経済ナショナリズムの台頭や米中対立の激化により、予測不能な政策変更や規制強化が相次ぎ、企業にとっての事業リスクは常態化しています。特に日本企業にとって、この潮流は自社の競争力維持に直結する重大な問題となっています。
PwC Japanの調査では、日本企業の経営層の82%が「地政学リスクの高まりを強く意識している」と回答しており、この数値は過去最高を記録しました。単なる一過性の不安ではなく、構造的に組み込まれた経営課題として認識されていることが明らかです。こうした背景から、企業は従来型のリスク管理から一歩踏み込み、将来を先取りする戦略的なインテリジェンス能力を構築する必要に迫られています。
地政学リスクの特徴は、その影響が極めて広範に及ぶ点にあります。例えば、関税の導入一つでサプライチェーンのコストは大幅に上昇し、製品の競争力が揺らぐ可能性があります。さらに規制強化や輸出管理の厳格化は、新市場への進出を制約し、技術開発や研究投資にも影響を与えます。結果として、企業の成長戦略そのものが根底から見直しを迫られることになります。
特に注目されるのは、リスクの質的な変化です。従来の最大の脅威はサイバー攻撃でしたが、直近の調査では「各国の保護主義的政策」が最も大きな懸念に浮上しました。サイバー攻撃が主に技術的領域に留まるのに対し、保護主義は市場アクセスや事業ポートフォリオ全体に影響を及ぼすため、取締役会レベルでの高度な意思決定を求めるものです。この変化こそが、単なる危機管理を超えたインテリジェンスの必要性を裏付けています。
また、こうした不安定な環境は同時に新しい事業機会をもたらす可能性も秘めています。規制や関税によって競合他社が撤退する市場において、先見性を持つ企業はシェアを拡大することができます。したがって、リスクを脅威としてのみ捉えるのではなく、機会に転換する能力が企業の持続的成長を左右します。
データが示す経営層の危機感と保護主義の台頭
地政学リスクが常態化する中で、日本企業の経営層が抱える危機感は調査データからも鮮明に浮かび上がります。PwC Japanグループが実施した「企業の地政学リスク対応実態調査2025」によると、経営層の47%が「関税引き上げなどの保護主義的政策」を最大の懸念事項に挙げています。また、43%が「米中対立の激化」、26%が「日米関係の悪化」を懸念しており、具体的な懸念が貿易摩擦や市場アクセスに集中していることが分かります。
以下の表は、最新調査に基づく主要な懸念事項を整理したものです。
懸念事項 | 回答割合 |
---|---|
関税引き上げなどの保護主義的政策 | 47% |
米中対立の激化 | 43% |
日米関係の悪化(貿易摩擦など) | 26% |
これらの数字は、企業にとって保護主義が単なる経済問題ではなく、経営そのものを揺るがす戦略課題に昇格したことを示しています。第一次トランプ政権期には鉄鋼に25%、アルミに10%の追加関税が課され、欧州連合は米国産ウイスキーに50%の報復関税を発動しました。この事例は、サントリーが傘下に持つビームサントリーの主力製品「ジムビーム」や「メーカーズマーク」に直接的な打撃を与える可能性を孕んでいました。
経営層がこの経験から学んだのは、一国の政策変更が瞬時にグローバル市場全体に連鎖的影響を及ぼすという現実です。だからこそ、調査で示されたように関税問題が依然として最大の懸念事項であるのです。
さらに、米中対立は経済安全保障の観点からも企業の戦略に直結します。国家間の技術競争や重要物資の供給網を巡る摩擦は、特定の業界や地域に依存する企業にとって極めて深刻なリスクです。結果として、経営層は従来の「市場戦略」だけでなく、「経済安全保障戦略」を同時に考慮する必要に迫られています。
このようにデータが示す危機感は、企業が今後どのようなリスク対応能力を持つべきかを強く示唆しています。サントリーが展開するようなプロアクティブなインテリジェンス活動は、その一つの模範例であり、他の日本企業にとっても参考になるでしょう。
サントリーの「インテリジェンス部隊」に見る統合ガバナンスの強み

サントリーが持つインテリジェンス能力は、特定の部門や肩書きに依存するものではなく、ガバナンス全体に組み込まれた機能として存在しています。同社のコーポレート・ガバナンス体制を分析すると、取締役会の監督の下でリスクマネジメント委員会が中心的な役割を担い、ERM(全社的リスクマネジメント)やBCP(事業継続計画)と連動して脅威に対応していることがわかります。この仕組みによって、サントリーは不確実な環境変化に先手を打ち、リスクを戦略的に管理できるのです。
特筆すべきは、ガバナンスが単なるコンプライアンス遵守の枠を超えて「企業の武器」として機能している点です。多くの企業ではリスク管理がコストと捉えられがちですが、サントリーは公式で規律あるプロセスを通じ、地政学リスクを構造化された戦略的課題に転換しています。リスク情報を収集・分析し、取締役会レベルの意思決定に直結させる設計は、組織的な先見性を高める装置として作用しています。
サントリーの統合ガバナンスの強みは、以下の三層構造に整理できます。
層 | 主な機能 | 特徴 |
---|---|---|
リスクマネジメント委員会 | 重要リスクの抽出・監視 | 経営層の直轄で運営 |
ERM | 発生可能性×影響度で評価 | データに基づく優先順位付け |
BCP | 代替調達・在庫確保など | 実務に直結する対応策 |
こうした枠組みにより、サントリーはトランプ政権下での関税リスクにも迅速に備えることができました。リスクマネジメント委員会が政策変動を監視し、外部のロビイストや業界団体から情報を収集、それをERMで分析した上で、具体的な対策を取締役会に報告・承認する一連の流れは、まさに企業版インテリジェンスの好例といえます。
サントリーのケースは、インテリジェンス機能が単独の部門に閉じるのではなく、企業全体のガバナンスと一体化することで効果を発揮することを示しています。リスクを見える化し、迅速に対応策を打つこの仕組みこそが、同社がグローバル市場でレジリエンスを維持するための基盤になっています。
OSINTとHUMINTを駆使する企業インテリジェンスの実践
現代の企業インテリジェンスは、公開情報を活用するOSINTと、人的ネットワークを基盤とするHUMINTの両輪で成り立っています。AIやデータマイニングの進化により、OSINTは膨大な公開情報をリアルタイムで収集・処理できるようになりました。一方で、政策決定の裏にある非公式の議論や関係者の意図といった文脈情報はHUMINTからしか得られません。サントリーを含む先進企業は、この二つを組み合わせることで、質の高い洞察を導き出しています。
OSINTとHUMINTの役割は以下のように整理できます。
- OSINT:政府公報、学術論文、メディア報道、SNS、衛星画像などから情報を収集し、AIで分析
- HUMINT:業界関係者、専門家ネットワーク、ロビイストや元政府高官から得られる非公開の情報
例えば、サントリーが米国通商政策の変動を監視する際、OSINTでは政権関係者の公式発言や報道を収集しますが、それだけでは政策の方向性を十分に把握できません。そこでHUMINTを通じ、議会スタッフや業界団体から非公式な情報を入手し、実際の政策決定に至るニュアンスを理解することが可能になります。
この組み合わせにより、単なる事実の羅列にとどまらず、「だから何なのか」という洞察を経営に提供できるのです。さらに、外部のコンサルティングファームを活用することで、自社に不足する地域情報や専門的知見を補完し、インテリジェンスの網を広げています。PwCやKPMG、デロイトといった企業は、グローバルネットワークを駆使して深い分析を提供し、企業の戦略的意思決定を支えています。
重要なのは、OSINTが容易に入手可能な情報であるため競争優位を生みにくい一方、HUMINTは模倣困難で排他的な性質を持つという点です。したがって、企業が独自の人的ネットワークを構築し維持することが、他社との差別化に直結します。サントリーの実践は、インテリジェンスをテクノロジーと人間の知見で補完し合う「ハイブリッド型アプローチ」の重要性を象徴しています。
リスクマネジメント委員会とERMが支えるプロアクティブ経営

サントリーのインテリジェンス機能を支える中核は、リスクマネジメント委員会と全社的リスクマネジメント(ERM)の二つの仕組みにあります。委員会はグループ全体のリスクを抽出・評価し、経営に重大な影響を与えるものを「重要リスク」として特定します。そのうえで責任者を割り当て、対応策を策定・実行させ、進捗を定期的に取締役会に報告します。この公式プロセスにより、経営層が地政学リスクをはじめとする複雑な脅威を適切に把握し、先手を打った意思決定が可能になります。
さらに、ERMプロセスはCOSO-ERMフレームワークを参照して設計され、リスクを「発生可能性」と「影響度」の二軸で評価します。その結果はマトリクスとして可視化され、客観的な優先順位付けが実現されます。
評価軸 | 高 | 中 | 低 |
---|---|---|---|
発生可能性 | 頻発 | 時折 | 稀少 |
影響度 | 重大損失 | 部分的損害 | 軽微 |
この仕組みにより、経営は感覚的な判断ではなくデータに基づいた戦略を描けます。特定されたリスクはPDCAサイクルで継続的に監視され、翌年度の評価に反映されるため、組織のリスク対応力は年々強化されます。
加えて、ERMの結果はBCP(事業継続計画)と直結します。たとえば特定国からの原材料調達がリスクと判断されれば、代替調達先の確保や在庫積み増し、生産拠点の分散化といった具体的な対応策が準備されます。こうして、インテリジェンスの「分析」とBCPの「実行」が一体化し、予兆から現実の対応までがシームレスにつながります。
サントリーの仕組みは、リスクを「起こってから対応する」のではなく「起こる前に戦略化する」点に特徴があります。この能動的アプローチが、激動の時代における企業の競争力を支えているのです。
国内主要企業との比較にみる多様なインテリジェンス体制
サントリーの統合的なインテリジェンス機能は一つの先進事例ですが、他の大手企業も自社の事業特性に応じたモデルを構築しています。総合商社、メーカー、テクノロジー企業などでの取り組みを比較すると、日本企業全体で地政学リスクへの対応が進化していることが見えてきます。
企業名 | モデル | 主要な焦点 | 特徴 |
---|---|---|---|
サントリー | 統合委員会型 | 通商政策、市場アクセス | ガバナンスに組み込む |
三菱商事 | 中央集権型(GI委員会) | マクロ経済、新規事業機会 | グローバル拠点から情報収集 |
トヨタ自動車 | 分散型 | サプライチェーン、輸出管理 | 各部門にインテリジェンス責任を配置 |
日立製作所 | データ駆動型 | サプライチェーン可視化、技術主権 | プラットフォームでリスク検知 |
三菱商事は「グローバルインテリジェンス委員会」を設置し、世界中の拠点から収集した情報を集約・分析して全社戦略に反映しています。これは多様な情報を統合し、経営層が迅速に判断できる仕組みを整えた典型的な中央集権モデルです。
一方、トヨタ自動車は専門部署を新設するのではなく、既存の部門にインテリジェンス責任を持たせています。技術情報管理や輸出管理を通じ、経済安全保障に対応する分散型のモデルを採用しています。
日立製作所はさらにデータ駆動型の特徴を持ち、サプライチェーン全体を可視化する「TWX-21プラットフォーム」を導入しました。これにより2次・3次サプライヤーまで含めてリスクを把握し、災害や地政学リスクの影響を迅速に検知する体制を構築しています。
このように、各社の体制は異なりますが共通しているのは、地政学リスクを経営トップ直轄の課題とし、受動的な対応から能動的な戦略へとシフトしている点です。サントリーの委員会モデルはその象徴的な事例であり、他社の事例と並べて考えることで、自社に適したモデル設計のヒントを得ることができます。
攻めの戦略的先見性を獲得するための日本企業への提言
不確実性が常態化する時代において、企業が競争優位を維持するためには、リスクを脅威として回避するだけでは不十分です。むしろ、変化の兆しをいち早く捉え、他社に先んじて行動する「攻めの戦略的先見性」が求められています。サントリーの事例は、インテリジェンス機能を通じてそうした先見性を組織に埋め込む実践例として示唆に富んでいます。
取締役会レベルでのオーナーシップの確立
経済ナショナリズムや保護主義的政策は、経営戦略に直結する重大課題です。そのため、インテリジェンス機能はCIOやCISOといった特定部門の責任に留めず、取締役会が主体的に関与すべき領域になっています。サントリーや三菱商事のように委員会組織を設置し、経営トップが監督する仕組みを整備することは、地政学リスクを企業の中枢で扱う体制を築く第一歩です。
インテリジェンス・サイクルの制度化
多くの企業では情報収集が場当たり的に行われ、意思決定につながらないケースが散見されます。国家の情報機関でも用いられる「インテリジェンス・サイクル」を企業活動に応用することで、情報が戦略的に活かされる仕組みが形成されます。
- 要求:経営上の課題を特定し、知るべき問いを明確化
- 収集:OSINTやHUMINTを組み合わせて情報を取得
- 処理:データを整理し、分析可能な形に変換
- 分析:背景や将来の含意を解釈し洞察を導出
- 配布:意思決定者に適切な形式で提供
このプロセスを定常的に回すことで、企業は組織的に未来を予測する力を養うことができます。
ハイブリッド能力への投資
公開情報を扱うOSINTは誰もが利用できるため差別化は困難ですが、人的ネットワークを通じたHUMINTは模倣困難な資産となります。したがって、最新のAI分析ツールへの投資と同時に、信頼できる人的ネットワークを育成・維持することが重要です。PwCやデロイトなど外部コンサルティングファームの専門知見を活用するのも一つの選択肢です。
戦略と事業運営との統合
インテリジェンスは単なる分析レポートで終わらせては意味がありません。中期経営計画、M&Aのデューデリジェンス、サプライチェーン設計、BCPの更新といった具体的な事業活動に反映させることで初めて価値が生まれます。サントリーが関税リスクに備えて事前に出荷調整や在庫確保を行った事例は、その典型といえます。
日本企業への実践的指針
- 取締役会直轄のインテリジェンス委員会を設置
- 優先インテリジェンス要求を定義しサイクル化
- OSINTとHUMINTを組み合わせたハイブリッド戦略
- 分析結果を事業戦略やBCPに直結させる仕組み
これらを実行することで、企業は守りのリスク管理を超えて、変化を競争優位に変えることが可能になります。未来を予測し、積極的に形作る力こそが、これからの日本企業に不可欠な資質となるのです。
ナンス全体に組み込み、インテリジェンス機能を能動的に活用する姿勢が企業の強靭性を高めています。
特に重要なのは、情報収集にとどまらず、経営意思決定に直結させるプロセスを制度化することです。OSINTとHUMINTを組み合わせたハイブリッドな情報収集、ERMを軸とした体系的なリスク評価、そしてBCPを通じた実務対応の一体化により、企業はリスクを管理可能な戦略課題へと変換できます。
また、国内の先進企業もそれぞれ異なるモデルを構築しながら共通して「受動から能動へ」の転換を図っています。三菱商事の中央集権型、トヨタの分散型、日立のデータ駆動型はいずれも特色があり、各社が自社の事業特性に応じてインテリジェンスを経営に取り込んでいます。
今後、日本企業に求められるのは、取締役会レベルでのオーナーシップの確立、インテリジェンス・サイクルの公式化、そして戦略・事業運営への完全な統合です。変化を脅威と捉えるだけでなく、競争優位を生み出す機会に転換する力こそが、不確実性の時代を勝ち抜くための必須条件となるのです。
出典一覧
PwC Japanグループ「企業の地政学リスク対応実態調査2025」結果速報
https://www.pwc.com/jp/ja/press-room/2025/geopolitics.html
PwC Japanグループ「企業の地政学リスク対応実態調査2024」コラム
https://www.pwc.com/jp/ja/knowledge/column/geopolitical-risk-column/vol24.html
日経ビジネス「サントリーの情報部隊」モーニングニュース(2024年7月31日放送回)
https://podcasts.apple.com/jp/podcast/7%E6%9C%8831%E6%97%A5-%E6%9C%A8-%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%83%85%E5%A0%B1%E9%83%A8%E9%9A%8A-80%E5%85%86%E5%86%86%E6%8A%95%E8%B3%87%E3%81%AF%E4%B8%8D%E5%B9%B3%E7%AD%89%E6%9D%A1%E7%B4%84%E3%81%8B-%E3%82%AB%E3%82%BA%E3%83%81%E3%83%BC-%E5%A4%A7%E3%83%92%E3%83%83%E3%83%88/id1786590822?i=1000719884340
三井住友DSアセットマネジメント「米輸入制限が日本株に与える影響」
https://www.smd-am.co.jp/market/ichikawa/2018/03/irepo180305/
中央日報「EU『米ウイスキー50%関税』予告に…トランプ氏『我々は200%』で対抗」
https://japanese.joins.com/JArticle/331135?sectcode=A00&servcode=A00
経済産業省「経済安全保障上の課題への対応(民間ベストプラクティス集)」
https://www.meti.go.jp/policy/economy/economic_security/best_practice2.0.pdf
日立製作所「リスクマネジメント:サステナビリティレポート」
https://www.hitachi.co.jp/sustainability/report/governance/risk_management.html
サントリー食品インターナショナル「リスクマネジメント」
https://www.suntory.co.jp/company/csr/gov_risk/