創立90周年を迎えた富士フイルムホールディングスは、かつての主力であった写真フィルム事業の衰退という危機を完全に乗り越え、今やヘルスケアとエレクトロニクスを両輪とするグローバルテクノロジー企業へと変貌した。同社の長期経営計画「VISION2030」は、2030年度に売上高4兆円、営業利益率15%以上という野心的な目標を掲げ、持続的価値創造を目指す壮大なロードマップである。その実行力は、2025年4~6月期に売上高7,495億円、営業利益753億円と過去最高を更新した業績により実証されている。

成長の原動力となるのは、バイオ医薬品の製造受託(CDMO)や内視鏡・AI診断プラットフォームを核とするヘルスケア事業、そして半導体材料を中心としたエレクトロニクス事業である。さらに、複合機を中心とするビジネスイノベーションや「INSTAX」や「Xシリーズ」で存在感を高めるイメージング事業を再定義し、安定的なキャッシュ創出源として成長事業を支えている点も注目される。

技術力、サステナビリティ、そして人的資本の融合によって築かれる競争優位性は、他の追随を許さない。だが同時に、巨額投資の実行リスクや地政学的リスクといった課題も横たわる。富士フイルムは果たして「第二の創業」を超え、真のグローバルテクノロジーリーダーへと飛躍できるのか。その挑戦の全貌を読み解いていく。

Contents

富士フイルムの変貌:写真フィルムからテクノロジーリーダーへ

かつて写真フィルム市場で圧倒的な地位を築いた富士フイルムは、デジタル化の波による市場縮小に直面し、存続そのものが危ぶまれる状況に追い込まれた。しかし、同社は大胆な事業転換を進め、現在ではヘルスケアとエレクトロニクスを両輪とする総合テクノロジー企業へと進化を遂げている。この変貌は単なる多角化ではなく、フィルム時代に培った高度な化学合成技術や精密な材料設計といった技術資産を、新市場で活かす「第二の創業」とも呼ばれる戦略である。

危機からの再生と新たな成長軌道

富士フイルムが直面した危機は、2000年代初頭に訪れたデジタルカメラ普及によるフィルム需要の急減である。この時期、米国のコダックが経営破綻に追い込まれたのに対し、富士フイルムは大規模なリストラと同時に積極的な研究開発投資を行い、早期に新規分野への進出を図った。その結果、化粧品、医薬、そして半導体材料といった成長市場に着実に根を下ろした。

成功の源泉となった技術的DNA

写真フィルムの製造に必要な「ナノレベルでの化学合成」「超高純度な材料管理」「光学技術の応用」は、半導体材料やバイオ医薬品の製造に直結する。富士フイルムはこれらの技術的DNAを武器に、競合が容易に参入できない高収益市場で存在感を強めている。例えば、最先端半導体に不可欠なフォトレジストやCMPスラリーは、同社が培った精密化学技術の延長線上にある製品群である。

グローバル展開とブランド再構築

現在、富士フイルムは世界中に拠点を構え、医療機器やバイオ医薬品の開発受託、半導体材料の供給といった分野でグローバルな競争に挑んでいる。同時に、カメラ事業では「INSTAX(チェキ)」や「Xシリーズ」といった独自のブランドを再構築し、スマートフォン全盛時代においても高付加価値市場を獲得することに成功している。

このように、富士フイルムの変貌は危機を機会に変えた象徴的な事例であり、伝統的な製造業の企業変革モデルとして国内外から注目を集めている。

長期経営計画「VISION2030」が描く4兆円企業への道筋

富士フイルムの企業活動を方向づける基盤となっているのが、長期経営計画「VISION2030」である。この計画は単なる数値目標ではなく、資本効率や社会的価値を含めた包括的な経営フレームワークとして設計されている。最終目標は2030年度に売上高4兆円、営業利益率15%以上を達成することであり、その実現に向けて緻密なロードマップが描かれている。

具体的な数値目標とマイルストーン

計画の中間目標として、2026年度には売上高3兆4,500億円、営業利益3,600億円を掲げている。さらに、ROIC(投下資本利益率)9%以上、ROE(自己資本利益率)10%以上を2027年度以降に達成する方針を明示しており、成長の「質」を重視する姿勢を鮮明にしている。

目標年度売上高営業利益営業利益率ROICROE
2026年度3兆4,500億円3,600億円10.4%
2030年度4兆円非公開約15%以上9%以上10%以上

パーパス経営とESGの統合

この計画を支えるのが「地球上の笑顔の回数を増やしていく」というグループパーパスである。従業員約7万人を一つに束ねる旗印として、ESG施策との統合が進められている。具体的には「環境」「健康」「生活」「働き方」を重点分野に掲げ、持続的な社会価値創造と財務成果の両立を追求している。サステナビリティ計画「SVP2030」もこの戦略の一環であり、環境負荷低減やダイバーシティ推進といった施策を経営に組み込んでいる。

投資と資本効率の両立

今後の投資額は2024~2026年度の3年間で総額1.9兆円に達する見込みであり、その多くをヘルスケアとエレクトロニクスに集中する。これは、成長余地が大きい分野に大胆に資本を配分しつつも、ROICやROEを指標に資本効率を徹底的に管理する姿勢を示している。

戦略的意義

「VISION2030」が示すのは、規模拡大を目的とした成長ではなく、収益性と社会的意義を両立させる新しい企業像である。アナリストからも「資本規律を重視した堅実な成長戦略」として評価されており、株主価値と社会価値を同時に最大化する先進的モデルとして注目されている。

このように、富士フイルムの「VISION2030」は単なる経営計画を超えた企業変革の設計図であり、今後数十年にわたる持続的成長の礎となる。

ヘルスケア事業の拡大:バイオCDMOとAI診断ソリューション

富士フイルムの未来を担う最大の成長ドライバーはヘルスケア事業である。同社は2026年度に売上高1兆2,000億円を目標とし、バイオ医薬品の製造受託(CDMO)とAIを活用した診断ソリューションを軸に事業拡大を図っている。バイオ医薬品市場は2020年代以降も年平均成長率8%を超える拡大が予測されており、富士フイルムはその波を的確に捉えつつある。

バイオCDMO事業の成長戦略

最大の注力分野がバイオCDMOである。米国ノースカロライナ州とデンマークに巨額の設備投資を行い、最先端の製造施設を整備している。特に米国拠点では大手製薬会社との間で総額20億ドル規模の長期契約を獲得しており、投資リスクを大幅に軽減するとともに市場の需要を裏付ける成果を得た。これにより、2027年度には単独でフリーキャッシュフローを黒字化する見通しが立っている。

医療機器とITの融合

同社の強みは、内視鏡やX線診断装置といった医療機器群とAI解析を組み合わせた統合ソリューションである。AIプラットフォーム「CITA Clinical Finder」によって診断効率を飛躍的に高め、病院全体のワークフローを最適化する。さらに、予防医療への取り組みとしてインドなど新興国に検診サービス「NURA」を展開し、治療から予防へと事業領域を拡大している。

競争環境と差別化

メドトロニックやシーメンス、ジョンソン・エンド・ジョンソンといった巨大企業が支配する市場において、富士フイルムは全方位で競うのではなく、バイオCDMOやAI診断といった高成長ニッチ市場に集中することで競争優位を築いている。写真フィルム時代に培った化学合成や精密材料技術を背景に、医薬品や医療機器の分野に応用する独自の戦略が光っている。

エレクトロニクス事業の挑戦:半導体材料とグローバル戦略

ヘルスケアと並ぶもう一つの成長エンジンがエレクトロニクス事業である。特に半導体材料は、デジタル社会の基盤を支える重要分野であり、富士フイルムは高付加価値製品への集中投資によって2030年度までに売上高5,000億円を目指している。

半導体材料の重点分野

富士フイルムは、半導体製造に不可欠なフォトレジストやCMPスラリー、後工程材料に特化している。これらはプロセス性能を左右する重要材料であり、同社は高純度な製造技術と材料設計力を強みに顧客からの信頼を獲得している。2023年には米インテグリス社のプロセスケミカル事業を7億ドルで買収し、製品ポートフォリオを拡充した。

グローバル供給網の構築

米国、欧州、アジアに製造・開発拠点を配置し、地政学リスクを分散させながら顧客企業のグローバル展開を支えている。特にインドではタタ・エレクトロニクスと協業を開始し、新興市場における先行的ポジションを確保した。2024~2026年度には1,700億円規模の設備投資を計画しており、供給能力の強化を加速させている。

成長見通しと技術的優位性

半導体材料市場はAIや自動運転などの需要拡大を背景に急成長が続いており、富士フイルムはその潮流に乗る形で事業拡大を目指している。特筆すべきは、環境規制が強まる中で有機フッ素化合物を使用しないArF液浸レジストの開発に成功した点である。これは業界の課題を先取りした技術であり、同社の研究開発力を象徴する成果である。

このように、エレクトロニクス事業は技術的DNAとグローバル戦略を組み合わせ、持続的に収益を伸ばす基盤を構築している。

レガシー事業の再定義:ビジネスイノベーションとイメージングの進化

富士フイルムの経営戦略が注目される理由の一つは、縮小が避けられないと見られていたレガシー事業を単なる資金回収の対象とせず、変革を通じて新たな価値を創出している点にある。かつての主力である複合機やカメラ事業は、現在では安定したキャッシュエンジンとして成長事業を下支えする重要な存在となっている。

ビジネスイノベーション事業の転換

複合機中心の事業は、競争激化と市場成熟により低成長が続いていた。しかし、富士フイルムは単なるハード販売から脱却し、クラウド型のドキュメント管理や中小企業向けDX支援へとビジネスモデルを進化させている。AIを活用した業務効率化サービスや、データセキュリティを重視したソリューションを提供し、サービス収益を高める戦略に転換したのである。結果として、2026年度の売上高は1兆2,750億円、営業利益は900億円を計画し、安定的な利益を見込んでいる。

イメージング事業の再定義

カメラ市場全体が縮小する中で、富士フイルムは大胆な選択を行った。低価格帯のコンパクトカメラ市場からは撤退し、「Xシリーズ」や「GFXシリーズ」といった高付加価値市場に集中したことで、高収益体質を確立した。特に「INSTAX(チェキ)」シリーズは、デジタル技術とアナログ体験を融合させることで若年層に支持され、世界累計出荷数は数億台規模に達している。2026年度には営業利益率20.8%という高水準を目標に掲げており、ブランド戦略の成功が裏付けられている。

キャッシュエンジンとしての役割

これら二つの事業は単独では急成長が望みにくいが、安定した収益を確保することでヘルスケアや半導体材料といった資本集約的な分野への投資を可能にしている。多角的ポートフォリオの中で明確な役割を担い、企業全体の成長サイクルを支える仕組みが完成している点は、富士フイルム経営の強みといえる。

財務健全性と市場評価:過去最高益と株主還元方針

富士フイルムの成長戦略は、最終的には財務成果によって正しさが証明される。2025年4〜6月期決算では売上高7,495億円、営業利益753億円と過去最高を更新し、戦略の有効性を裏付けた。特にバイオCDMOや半導体材料の好調が寄与し、変革の成果が数値として現れている。

最新業績の特徴

四半期としては過去最高の売上高と営業利益を達成した一方で、為替差損の影響で純利益は前年同期比で減少した。また、一部の事業では成長が鈍化しており、外部環境によるリスクも無視できない。ただし、通期予想としては売上高3兆2,800億円、営業利益3,310億円を見込み、過去最高益を更新する計画を維持している。

財務の健全性と投資余力

積極的な投資を続けながらも自己資本比率は63.6%と高水準を維持している。これは資本効率を重視する経営姿勢の表れであり、将来的な大型投資や新規事業開発に対しても十分な余力を持つことを意味する。ROIC9%以上、ROE10%以上の達成目標も掲げられ、資本コストを上回る収益創出への強いコミットメントが見える。

株主還元の方針

株主に対しては16期連続となる増配を予定し、1株当たり年間配当金は70円に到達する見込みである。安定した還元方針は投資家心理を支える重要な要素であり、市場からの評価も高い。証券アナリストによるコンセンサス予想でも、業績見通しは会社計画を上回る水準が示され、目標株価引き上げの動きも見られる。

このように、富士フイルムは積極的な成長投資と堅実な財務管理を両立させ、株主価値と企業価値を同時に高める経営を実践している。

技術・人材・ESGが生み出す持続的競争優位

富士フイルムの成長を下支えするのは、財務や投資計画だけではなく、研究開発力、人材活用、そしてサステナビリティ経営の三位一体の取り組みである。これらは有形の資産に比べて外部から見えにくいが、長期的には模倣困難な競争優位を形成する源泉となっている。

技術基盤の深化とイノベーション

同社は写真フィルムで培った化学合成や光学技術を応用し、半導体やバイオ医薬品の領域に展開している。特に注目されるのが、有機フッ素化合物を一切使用しないArF液浸レジストの開発成功である。これは環境規制が厳格化する半導体業界において重要な技術的ブレークスルーであり、研究開発力の高さを示す成果といえる。

サステナビリティと社会的評価

環境面では循環型経済を推進し、フィリピンに複合機の再生拠点を設置するなど具体的な取り組みを進めている。国際的な評価機関CDPから気候変動対応における最高評価を受けたことは、外部からの信頼を裏付ける事例である。さらに、堀場製作所との協業で遺伝子治療薬の生産効率を高める装置を開発するなど、社会課題の解決に直結する活動も展開している。

人材と組織文化の力

後藤CEOは「従業員一人ひとりの志こそが企業競争力の源泉」と繰り返し強調している。自律的な成長を支援するプログラム「+STORY」の導入や、女性役職者比率を2030年度までに25%へ引き上げる目標を掲げるなど、多様性と挑戦を重視する文化を形成している。この組織文化は、新事業への挑戦を促進し、事業領域を越えた技術シナジーを生み出す推進力となっている。

こうした無形資産の蓄積は、短期的な業績だけでは測れない富士フイルムの真の競争力を示している。

将来の機会と潜在リスク:成長の試金石としての実行力

富士フイルムは大胆な多角化と巨額投資を通じて未来の成長機会を掴もうとしているが、その一方で克服すべきリスクも存在する。機会とリスクを冷静に見極めることが、同社の次の10年を決定づける。

成長機会の広がり

世界的なメガトレンドは同社に追い風をもたらしている。バイオ医薬品市場は2033年までに2,000億ドルを超える規模に達すると予測され、CDMO需要の拡大が続く。またAI革命の進展により先端半導体需要も急増し、同社の半導体材料事業に大きな成長余地を提供している。これらの分野でシェアを拡大できれば、長期的な企業価値向上が期待できる。

潜在的リスクの存在

一方で、リスクは多岐にわたる。特にバイオCDMOにおける大型設備投資は、予定通りの稼働と顧客確保が絶対条件であり、遅延や技術的問題が生じれば収益計画に直結する。また、米中対立を背景とした半導体サプライチェーンの不確実性や為替変動も経営に影響を与える要因である。さらに、競争相手にはシーメンスやジョンソン・エンド・ジョンソン、半導体分野では日本勢や米韓勢といった巨大プレイヤーが存在し、熾烈な競争は避けられない。

実行力が最大の試金石

戦略の正しさは既に業績で証明されたが、今後問われるのは実行力である。巨額投資を計画通りに収益化できるかどうか、組織が変化に柔軟に対応できるかが成否を分ける。市場関係者からも「富士フイルムの真価は、CDMOの立ち上げを予定通り進められるかにかかっている」との見方が多い。

つまり、富士フイルムの将来を左右するのは、機会を確実に実現し、リスクをコントロールする能力である。この実行力こそが同社を真のグローバルテクノロジーリーダーへと押し上げる最大の要素となる。

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