塩野義製薬株式会社は、感染症領域における卓越した研究開発力と、高収益な抗HIV薬ロイヤリティ収入を両輪に成長を続ける、日本製薬業界でも特異な存在である。だが、その強固な財務基盤の裏側では、2028年頃から本格化する特許切れという試練が迫っている。

この課題に真正面から挑むべく、同社は長期経営ビジョン「Shionogi Transformation Strategy 2030(STS2030)」を掲げ、創薬型製薬企業から「Healthcare as a Service(HaaS)」プロバイダーへと大胆な変革を進めている。HaaSとは、薬の提供にとどまらず、予防・診断・治療・予後管理を包括的に担うヘルスケア・プラットフォーム構想であり、製薬企業の枠を超えた次世代モデルである。

COVID-19治療薬「ゾコーバ」の成功を起点に、塩野義はグローバル市場で自社販売を強化し、JT医薬事業や鳥居薬品の買収を通じて国内の販売基盤も盤石にした。今、同社が目指すのは、ロイヤリティ依存からの脱却と、真のグローバル・ヘルスケア企業への進化である。その挑戦の先に、製薬業界の新たな未来図が見えてくる。

塩野義製薬の現在地:感染症のレガシーを礎にした独自の経営モデル

塩野義製薬株式会社は、日本の製薬業界の中でも極めて特異なポジションを築いている。その根幹にあるのは、感染症領域における長年の研究開発の蓄積と、抗HIV薬ロイヤリティという高収益な収益源という二つの柱である。創業以来140年以上にわたり、人々の健康を守るという理念を掲げ、利益が見込みにくい感染症分野から撤退する他社とは一線を画してきた。

その経営哲学の原点は、1957年に制定された「シオノギの基本方針」にある。これは「常に人々の健康を守るために必要な最もよい薬を提供する」という使命を明文化したものであり、現在の長期経営戦略「STS2030」にも継承されている。この理念が、同社が薬剤耐性(AMR)問題や公衆衛生課題など、採算性の低い領域においても研究開発を続ける理由を支えている。

さらに、同社のビジネスモデルは垂直統合型であり、研究開発・製造・販売を自社グループ内で完結させる構造を持つ。大阪・道修町の本社を中心に、製造を担うシオノギファーマ、一般用医薬品を扱うシオノギヘルスケア、海外のShionogi Inc.やShionogi Limitedなど、地域別に高度な専門性を有する子会社群が全体を支える。

この「伝統と科学の融合」という二重構造が、塩野義製薬を単なる製薬メーカーではなく、長期的な社会的使命を果たす医療企業へと押し上げている。感染症領域におけるフェトロージャ(AMR対策薬)やCOVID-19治療薬ゾコーバの開発は、まさにその哲学の結晶である。こうした独自の道を歩むことで、塩野義製薬は国内外の医薬産業の中で際立つ存在感を放っている。

ロイヤリティ収益が支える成長基盤と特許クリフの影

塩野義製薬の財務の最大の特徴は、抗HIV薬からのロイヤリティ収入が全売上の半分以上を占めている点にある。2025年3月期のロイヤリティ収入は2,447億円、そのうちヴィーブヘルスケア社経由の抗HIV薬関連が約2,404億円に達し、営業利益率は35.7%と国内製薬大手でも際立って高い。

この構造により、同社は販売・広告コストを最小限に抑えつつ、極めて高収益かつ安定したキャッシュフローを確保している。その潤沢な資金を自社創薬比率約70%という積極的な研究開発体制に投じており、感染症領域を中心に次世代パイプライン(ゾコーバ、フェトロージャ、Zuranoloneなど)を拡充している。

一方で、このモデルは「強み」であると同時に「脆弱性」も孕む。**2028年以降に本格化する抗HIV薬の特許切れ(パテントクリフ)**が予測されており、ロイヤリティ収入の減少は避けられない。そのため塩野義製薬は、現在の利益を新たな事業モデル「HaaS(Healthcare as a Service)」への転換資金として再投資している。HaaS戦略では、医薬品の販売に加え、予防・診断・予後管理を一体化したサービス型医療提供モデルの構築を目指す。

財務的には、自己資本比率約90%、ROE13.1%という健全なバランスシートを持ち、国内M&Aやグローバル展開における強固な基盤を確保している。これは短期的には極めて安定した経営を支える一方で、長期的にはロイヤリティ依存構造からの脱却が問われることを意味する。

塩野義製薬の現経営陣が直面する最大の挑戦は、**「時間との戦い」**である。特許切れ前に次の収益エンジンを確立できなければ、現在の利益構造は急速に変化する。だが、そのリスクを正面から受け止め、ゾコーバや新規抗菌薬開発を推し進める姿勢こそが、塩野義製薬の真価を示している。

STS2030 Revisionで示された大胆な転換点

塩野義製薬が掲げる長期経営ビジョン「Shionogi Transformation Strategy 2030(STS2030)」は、単なる中期経営計画ではなく、企業の存在意義そのものを再定義する改革である。2023年に公表された改訂版「STS2030 Revision」では、従来の創薬型製薬企業から、ヘルスケア・ソリューションを包括的に提供する企業への転換が鮮明に打ち出された。

その背景には、COVID-19パンデミック対応で得た成功体験がある。ゾコーバ(エンシトレルビル)を日本初の国産コロナ経口薬として短期間で開発・承認した経験が、同社の研究開発体制と意思決定のスピードを大きく変えた。これを契機に、塩野義製薬は経営計画の見直しを行い、2030年度の売上収益目標を従来の6,000億円から8,000億円へ上方修正した。

この改訂版の要点は、以下の3つの成長エンジンに集約される。

成長ドライバー主な戦略内容目標
HIVビジネスの深化長時間作用型注射剤や次世代薬の創出特許クリフの影響最小化
COVID-19関連薬の拡大ゾコーバのグローバル販売網確立米欧市場での承認・普及
新規事業・ワクチンの育成10製品以上の新規上市を目指す新たな収益基盤構築

塩野義製薬はこの計画を通じ、感染症や精神疾患などの重点領域で競争優位を確立すると同時に、「モノ」から「コト」への転換を加速させる。このアプローチは医薬品という製品販売にとどまらず、データ・AI・予防医療を統合したトータルヘルスケアソリューションを提供する構想である。

特に注目すべきは、社内組織の変革である。パンデミック下で確立された「迅速な意思決定プロセス(Pandemic Speed)」を標準化し、研究開発から販売までの全プロセスに組み込んでいる点だ。これは、グローバル市場で競争力を高めるうえで欠かせない体制変革であり、塩野義製薬が“科学と実行”の両輪を持つ企業へと進化している証左である。

HaaS戦略の真髄:ヘルスケアを「モノ」から「コト」へ

塩野義製薬のSTS2030における最大のイノベーションは、「Healthcare as a Service(HaaS)」という概念である。これは、医薬品の販売にとどまらず、予防・診断・治療・予後管理を包括的に提供する新たな事業モデルであり、“薬を売る企業から健康を提供する企業へ”というパラダイム転換を意味する。

HaaSモデルの第一歩として注目されるのが、「下水疫学モニタリング事業」である。これは、都市下水を分析して感染症の流行兆候を早期に検知するシステムであり、感染拡大予防に直結する。すでに複数の自治体や企業で導入が進み、公共衛生領域における新たなデータ事業として評価されている。

HaaSを支える技術基盤として、同社はAWSなどのクラウド環境を活用し、データ駆動型の創薬・予防サービスを展開している。AI解析による創薬スピードの向上、個別化医療の推進、そしてデジタル治療の導入など、デジタルヘルス分野への大胆なシフトが始まっている。

箇条書きで整理すると、HaaS戦略の構成要素は以下の通りである。

  • 感染症予防のためのデータプラットフォーム(下水モニタリングなど)
  • デジタル治療・遠隔診療などの患者中心型サービス
  • 研究・開発・臨床・市販後データを統合するAI創薬基盤
  • 医療機関・行政との連携による社会的インフラ化

このように、HaaSは「治す」から「防ぐ」「見守る」へと医療の範囲を拡張する構想であり、塩野義製薬が掲げる**「感染症の脅威からの解放」**という企業理念を現代的に具現化する取り組みでもある。

また、HaaSの経済的意義は大きい。高齢化と医療費増大という社会的課題に対し、疾病の予防と早期介入を可能にするこのモデルは、国や自治体にとってもコスト削減と健康寿命延伸の両立を実現しうる。今後、塩野義製薬が日本発のヘルスケア・サービスプロバイダーとして世界市場でどこまで存在感を示せるかが注目される。

ゾコーバとフェトロージャに見る研究開発の革新性

塩野義製薬の研究開発戦略の中心にあるのは、**自社創薬比率70%を超える「独立型創薬モデル」**である。外部ライセンス依存を最小限に抑え、自社の低分子創薬技術と臨床データ解析力を融合させることで、ファーストインクラスおよびベストインクラスの新薬を生み出す体制を築いている。

その象徴が、COVID-19経口治療薬「ゾコーバ(一般名:エンシトレルビル)」である。2022年に日本国内で緊急承認を取得し、2024年度には6歳以上への適応拡大を申請。さらに2025年には米国FDAへの予防適応のローリングサブミッションを開始しており、グローバル市場への展開が本格化している。この迅速な開発と承認プロセスは、感染症治療における日本企業の機動力を示す成功例として高く評価されている。

一方、抗菌薬「フェトロージャ(一般名:セフィデロコル)」は、薬剤耐性菌(AMR)に対抗する世界最先端の抗菌薬として注目される。商業的な成功が難しい抗菌薬市場において、塩野義製薬はあえて参入を続ける稀有な企業であり、同薬を「収益」ではなく「社会的使命」の象徴として位置づけている。フェトロージャは、グラム陰性菌に有効な最後の防波堤とされ、世界保健機関(WHO)やG7のAMR対策の議論にも頻繁に取り上げられている。

また、同社の研究パイプラインには、うつ病治療薬Zuranolone(国内第3相試験中)、認知機能改善薬Zatolmilast(脆弱X症候群を対象、第2b/3相試験中)、長時間作用型HIV薬S-365598(半年に1回投与)などが並ぶ。短期的な収益よりも長期的な科学的価値を追求する姿勢が明確であり、同社の研究開発戦略は「リスクを恐れず革新に投資する」哲学に貫かれている。

このように、ゾコーバとフェトロージャの両極的な成功は、塩野義製薬のR&Dモデルの完成度を示すものである。前者は商業的成功を、後者は社会的評価を体現し、両者のバランスが企業としての持続的価値を生み出している。

グローバル販売網の構築とM&Aによる攻めの布陣

塩野義製薬はこれまでの「研究重視」型企業から脱皮し、**グローバル展開を見据えた“攻めの商業化戦略”**へと舵を切っている。その中心にあるのが、販売網拡充と戦略的M&Aである。

2024年、同社は日本たばこ産業(JT)の医薬事業および鳥居薬品を買収し、国内市場における営業・販売体制を一気に強化した。これにより医療用医薬品の販売網が拡大し、既存の感染症領域に加え、中枢神経・免疫領域でも高い販売シナジーが期待されている。2025年度には、これらの統合効果を背景に**売上収益5,300億円(前期比20.9%増)**という意欲的な目標を掲げており、国内製薬市場における存在感をさらに高めつつある。

海外では、米国Shionogi Inc.および欧州Shionogi Limitedを拠点に、ゾコーバの商業展開を加速。グローバル販売の内製化を進め、これまでパートナー企業経由で得ていたロイヤリティ依存構造からの脱却を図っている。特に米国市場では、自社販売体制の構築を通じて価格戦略や供給体制を柔軟に設計できるようになり、長期的な収益基盤の安定化を狙う。

さらに塩野義製薬は、デジタルテクノロジーを活用した販売最適化にも注力している。AWSとの連携による顧客データ分析、販売予測AIの導入、遠隔医療向け情報提供プラットフォームの構築など、製薬とテクノロジーの融合による営業改革を進めている点が特徴だ。

これらの取り組みは単なる販売強化ではなく、**「創薬から提供までを統合する垂直型モデル」**の完成に向けた一手である。研究開発で生まれた価値を、グローバル市場で自ら届けることによって、ブランド価値と収益力の両立を図る。

つまり塩野義製薬の戦略は、R&Dの独立性を維持しながらも、販売・流通の主導権を握ることで企業価値を最大化する“完全統合型ヘルスケア企業”への進化を目指している。その布陣はもはや日本国内にとどまらず、世界市場での「自立した存在感」を確立しつつある。

感染症と精神疾患で挑む「非対称戦略」

塩野義製薬の成長戦略の中核には、**感染症と精神・神経疾患という異なる2つの領域を並行して強化する「非対称ポートフォリオ戦略」**がある。これは、収益構造と社会的意義の両立を狙う極めて独自のアプローチであり、同社が他の製薬大手と一線を画す理由でもある。

感染症領域では、ゾコーバやフェトロージャといった代表薬を中心に、ウイルス感染・抗菌薬の両面から持続的なポートフォリオを構築している。パンデミック対応から生まれた知見を生かし、「予防・治療・封じ込め」を一体で提供するトータルヘルスケアモデルの確立を進めている点が特徴だ。

一方、精神・神経領域では、うつ病治療薬Zuranolone、脆弱X症候群の認知改善薬Zatolmilast、認知症関連薬などの後期臨床試験が進行中である。これらは、感染症と異なり長期治療・継続服薬が前提となる領域であり、安定した収益源としての期待が高い。

両領域の補完関係は明確である。感染症分野は高い社会的貢献と変動リスクを伴い、精神・神経領域は市場規模の拡大と持続的キャッシュフローを生む。この二軸構成により、塩野義製薬は**景気変動やパンデミックといった外部要因に強い“防御と攻めのバランス型企業”**へと進化している。

さらに、両領域を支える共通基盤としてAI創薬技術の導入を進め、疾患モデル解析や化合物スクリーニングにおける生産性を大幅に高めている。創薬効率化の成果として、開発期間の短縮と臨床成功率の上昇が確認されており、“データ駆動型製薬企業”としての再定義が進行している。

ゾコーバ承認と次世代パイプラインが示す未来展望

塩野義製薬にとって、ゾコーバ(エンシトレルビル)の承認は単なる新薬開発の成功ではない。日本発の感染症治療薬がグローバル市場で商業化されるという歴史的転換点であり、同社が描く未来戦略の出発点である。

2025年現在、ゾコーバは米国FDAでの承認申請を進めており、同時にアジア・欧州でも展開準備が進行中である。アナリストの間では、同薬が「日本企業による感染症治療の再定義を象徴する」との評価が広がっており、ゾコーバの米国承認と初期販売動向が塩野義製薬のグローバル戦略を占う試金石になるとの見方が強い。

さらに、後期開発パイプラインにはHIV長期作用型注射剤、Zuranolone、Zatolmilastなど、いずれもグローバル展開を見据えた品目が並ぶ。特に半年に1回の投与で効果を維持できる次世代HIV薬S-365598は、服薬アドヒアランス向上の観点から注目されている。

塩野義製薬はこれらのパイプラインを通じて、「感染症の制圧」と「精神的健康の回復」を両輪とする企業像を確立しようとしている。すなわち、疾患の種類ではなく「社会の不安要因を軽減する」という視点から事業を設計する点に、同社の真の独自性がある。

投資家の評価も概ね「中立からやや強気」とされ、平均目標株価は現状からの緩やかな上昇を示唆する。背景には、強固なパイプラインと高い収益性への期待、そしてグローバル商業化という挑戦への慎重な見通しがある。

今後1~2年、ゾコーバの米国承認と販売実績、JT医薬事業との統合効果、後期パイプラインの臨床結果が連動して開花すれば、塩野義製薬は真のグローバル・ヘルスケア・カンパニーとして飛躍する。その未来は、既に確固たる基盤の上に築かれつつある。

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