欧州のサステナビリティ規制は、ここ数年で大きく揺れ動いてきました。人権や環境への配慮を企業活動の中心に据えるという大きな潮流は変わらない一方で、過度な規制が競争力を損なうのではないかという現実的な懸念も強まっています。

その象徴ともいえるのが、欧州企業サステナビリティ・デューデリジェンス指令(CSDDD)を巡る一連の見直しです。適用対象の大幅な絞り込みや義務内容の合理化は、多くの企業にとって「負担軽減」と映るかもしれませんが、同時にサステナビリティ対応の質そのものが問われる局面に入ったとも言えます。

特に日本企業にとって重要なのは、欧州規制の緩和を単なる猶予と捉えるのか、それとも自社のグローバル戦略を再設計する好機と捉えるのかという視点です。本記事では、CSDDDの制度変容の背景と最新動向を整理しつつ、日本企業が今後どのように戦略的に対応すべきかを多角的に考察します。

CSDDDとは何か:人権・環境デューデリジェンスの基本構造

欧州企業サステナビリティ・デューデリジェンス指令(CSDDD)とは、企業活動が人権および環境に及ぼす負の影響を、事後対応ではなく予防的に管理することを法的義務として定めたEUの中核的規制です。**自社だけでなく、子会社や取引先を含む「活動チェーン」全体を視野に入れる点**が最大の特徴であり、国連の「ビジネスと人権に関する指導原則」やOECD多国籍企業行動指針を、拘束力ある法制度へと昇華させた試みと位置づけられています。

2024年7月に発効した当初のCSDDDは、グローバル企業に対し、強制労働や児童労働、労働安全、環境汚染、生物多様性の毀損など、幅広いリスクを網羅的に特定・防止・是正することを求める野心的な設計でした。しかし2026年時点では、オムニバス簡素化パッケージを経て、**「包括的な網羅」から「影響の大きい領域に集中するリスクベース型」へと再構成**されています。

CSDDDの基本構造は、単なる調査義務ではありません。欧州委員会の公式説明によれば、企業は方針策定、リスク特定、是正措置、苦情処理、モニタリング、情報開示という一連のマネジメントプロセスを継続的に運用することが求められます。これはISO規格や内部統制に近い考え方であり、**一度対応すれば終わりではなく、経営サイクルに組み込むことが前提**となっています。

要素 内容 実務上の意味
対象範囲 自社・子会社・活動チェーン 直接統制できない取引先管理が重要
対象テーマ 人権・環境の負の影響 労働・環境双方の専門知識が必要
アプローチ リスクベースで優先順位付け 資源配分と説明責任が問われる

特に重要なのが「活動チェーン」という概念です。これは従来のサプライチェーンよりも広く、原材料調達から製造、輸送、販売、場合によっては廃棄段階までを含みます。ただし2026年現在の枠組みでは、**直接的なビジネスパートナーであるティア1を起点とし、重大リスクが示唆される場合にのみ深層へ拡張する**という現実的設計が採用されています。

またCSDDDは、情報開示を主軸とするCSRDとは役割が異なります。学術研究や欧州の法実務家の分析によれば、CSRDが「何が重要かを説明する制度」であるのに対し、CSDDDは「問題が起きないように行動する制度」です。**報告の正確性よりも、意思決定と行動の妥当性が問われる点**が、経営に与える影響を大きくしています。

このようにCSDDDは、単なるEUローカル規制ではなく、グローバル企業に対して「責任ある経営とは何か」を具体的なプロセスとして定義する枠組みです。2026年時点での簡素化後も、その基本思想は揺らいでおらず、企業の人権・環境対応を戦略レベルへ引き上げる基盤として機能し続けています。

欧州サステナビリティ規制が転換点を迎えた背景

欧州サステナビリティ規制が転換点を迎えた背景 のイメージ

欧州サステナビリティ規制が転換点を迎えた最大の背景は、当初の理想主義的な拡張路線が、経済安全保障と国際競争力という現実的制約に直面したことにあります。2024年7月に発効したCSDDDは、企業に対してグローバルな活動チェーン全体での人権・環境リスク管理を法的義務として課す、画期的な規制でした。

しかし2025年を通じ、欧州委員会や加盟国政府の間で「規制疲労」が顕在化します。高止まりするエネルギー価格、中国企業との競争激化、投資資金の域外流出への懸念が重なり、**規制の質を維持しつつ量を減らす**という政治的コンセンサスが形成されていきました。

その象徴が、2025年2月に提示され12月に合意したオムニバス簡素化パッケージです。欧州委員会はこれを競争力強化戦略の一環と位置づけ、全企業で25%、中小企業で35%の行政負担削減という明確な数値目標を掲げました。欧州会計専門家連盟などによれば、これは単なる技術修正ではなく、規制哲学そのものの転換を意味するとされています。

観点 当初の方向性 再校正後の方向性
対象企業 広範な大企業層 影響力の大きい超巨大企業に限定
アプローチ 網羅的調査 リスクベースで優先順位付け
政策目的 規範の先導 競争力と実効性の両立

この転換を後押しした外部要因として、2025年の米国における政権交代後の脱ESG的な規制緩和の動きも無視できません。米国証券取引委員会によるESG関連ルールの停止は、欧州産業界に「規制過多が投資を米国へ追いやる」という危機感を与えました。欧州議会内の保守・右派勢力がこの論点を積極的に活用したことは、多くの研究者が指摘しています。

結果としてCSDDDは、理想を掲げて一律に企業行動を変えさせる規制から、**重大リスクに集中する戦略的ガバナンス手法**へと再定義されました。これは後退ではなく、実装可能性を重視した調整だと評価する声がある一方で、NGOや国連人権高等弁務官事務所は、企業アカウンタビリティの弱体化につながると警鐘を鳴らしています。

このように、欧州サステナビリティ規制の転換点は、地政学、経済、政治が交錯する中で生まれた必然的な帰結であり、2026年時点のCSDDDは、その緊張関係を色濃く反映した制度設計となっています。

オムニバス簡素化パッケージがもたらした制度変更の全体像

オムニバス簡素化パッケージがもたらした最大の変化は、CSDDDを「網羅的な理想モデル」から「影響力の大きい主体に集中する制度」へと再設計した点にあります。2026年時点のCSDDDは、すべての企業に広く義務を課す枠組みではなく、**人権・環境への負の影響を実際に左右し得る超大規模企業に規制資源を集約する**という明確な政策判断のもとで再構築されています。

この再編の出発点となったのが、欧州委員会が掲げた「行政負担25%削減、SMEでは35%削減」という数値目標です。欧州委員会の競争力戦略によれば、サステナビリティ規制が投資判断や企業立地に与える影響は無視できない段階に達しており、規制の質を維持したまま量を抑えることが不可欠だとされています。実際、BusinessEuropeなど主要産業団体は、当初案のままでは書類対応が目的化し、実効的なリスク是正に人材と資金を割けなくなると繰り返し警鐘を鳴らしていました。

その結果として最も象徴的なのが、適用閾値の大幅な引き上げです。従業員数と売上高の基準が跳ね上がったことで、直接義務を負う企業数は当初想定の約3割にまで縮小しました。欧州委員会自身の影響評価でも、対象企業を絞り込むことで監督当局の執行能力が高まり、違反事例への対応速度が向上するとの見解が示されています。

項目 当初想定 オムニバス後
EU域内企業の主基準 従業員1,000人・売上4.5億ユーロ超 従業員5,000人・売上15億ユーロ超
EU域外企業の売上基準 4.5億ユーロ超 15億ユーロ超
制裁金上限 世界売上高の5% 世界売上高の3%

同時に、制度設計の思想そのものも変化しています。改訂後のCSDDDでは、**形式的に全サプライチェーンを調査することよりも、深刻性と発生可能性が高いリスクに経営資源を集中させること**が強く意識されています。欧州委員会やAccountancy Europeの分析によれば、これは企業にとっての負担軽減策であると同時に、監査・監督の観点からも合理的だとされています。

さらに重要なのは、スケジュール設計の見直しです。段階導入が撤回され、2029年7月に一斉適用とされたことで、企業は「いつから適用されるか」を巡る不確実性から解放されました。Dentonsなど国際法律事務所は、これにより企業は短期対応ではなく、中期のガバナンス改革としてデューデリジェンス体制を設計できるようになったと評価しています。

このようにオムニバス簡素化パッケージは、単なる規制緩和ではなく、CSDDDを**執行可能性と競争力を重視した制度へと再校正する全体的な制度転換**でした。規制の射程は狭まりましたが、その分、残された義務の重みと戦略的意味合いは、むしろ明確になったと言えます。

適用対象企業の再定義と日本企業への直接的影響

適用対象企業の再定義と日本企業への直接的影響 のイメージ

オムニバス簡素化パッケージによって最も明確に変化したのが、CSDDDの適用対象企業の再定義です。2026年時点での確定基準では、従業員数と売上高の閾値が大幅に引き上げられ、規制の射程は「影響力の極めて大きい超巨大企業」に限定されました。欧州委員会自身も、この見直しによって当初想定されていた対象企業の約70%が直接的な法的義務から外れると説明しています。

この変更は、日本企業にとって一見すると朗報に映ります。EU域外企業である日本企業の場合、EU域内売上高15億ユーロ超という高い基準を満たさなければ直接適用されません。JETROや欧州系法律事務所の分析によれば、2026年時点でこの水準に該当する日系企業はごく一部に限られています。

区分 2026年確定基準 日本企業への意味合い
EU域内企業 従業員5,000人超かつ売上15億ユーロ超 取引先としての影響力が増大
EU域外企業 EU域内売上15億ユーロ超 該当企業は限定的
制裁金上限 全世界売上高の最大3% 直接対象企業のリスクは依然高水準

しかし、直接適用の有無と実務上の影響は必ずしも一致しません。欧州でCSDDDの義務を負う大企業は、自社のリスク低減のため、サプライヤーや取引先に対して契約条項や行動規範を通じたデューデリジェンス要請を継続します。欧州委員会やBusinessEuropeの見解でも、今回の簡素化は「責任の外注」を否定するものではないとされています。

実際、2025年末に実施されたJETROの在欧日系企業インタビューでは、直接対象外となった製造業や商社であっても、欧州の主要顧客から人権・環境リスク評価の提出を求められるケースが減っていないことが確認されています。特にTier1サプライヤーとして位置付けられる日本企業は、形式的な対象外であっても、実質的にはCSDDD対応を前提とした経営判断を迫られています。

さらに重要なのは、対象外となったことで「何もしなくてよい」という選択肢が現実的ではなくなった点です。民事責任規定の削除により法的リスクは一定程度後退しましたが、その分、取引継続や投資判断における評価軸としてのデューデリジェンスの重みはむしろ増しています。専門家の間では、CSDDDはもはや単独の法令ではなく、欧州市場で事業を行うための「信用インフラ」として機能し始めていると指摘されています。

このように、適用対象企業の再定義は、日本企業に法的猶予を与える一方で、取引関係を通じた間接的な影響をより鮮明にしました。規制の網から外れたという事実よりも、欧州企業の行動変容が自社にどのような要請をもたらすのかを正確に読み解くことが、2026年以降の実務対応の出発点となります。

義務内容の見直しとリスクベース・アプローチの強化

オムニバス簡素化パッケージの核心は、CSDDDにおける義務内容を量的に削減する一方で、質的にはリスクベース・アプローチを明確に打ち出した点にあります。欧州委員会は、形式的で網羅的な対応が企業の実効的な人権・環境リスク管理を阻害してきたという反省に立ち、限られた経営資源を「最も深刻で発生可能性の高いリスク」に集中させる設計へと舵を切りました。

象徴的なのが、デューデリジェンス対象となる活動チェーンの再定義です。改訂後のCSDDDでは、調査の主軸を直接的なビジネスパートナー、いわゆるTier1に置くことが明確に認められています。Tier2以降の深層サプライチェーンについては、重大な負の影響が存在するという合理的な情報がある場合に限定して調査を行う枠組みとなりました。Accountancy Europeによれば、これは「リスクが顕在化していない領域への無差別な調査要求を抑制する」ための合理化と位置づけられています。

項目 当初の考え方 2026年時点の枠組み
調査範囲 活動チェーン全体を原則網羅 高リスク領域を優先
重点対象 全サプライヤー Tier1を中心
深層供給網 恒常的な調査義務 合理的情報がある場合のみ

さらに重要なのは、中小企業への配慮が制度上明文化された点です。従業員5,000人未満のビジネスパートナーに対して詳細な情報提供を求めることは、公的データや第三者レポートなどの代替手段で情報が得られない場合の最終手段とされています。これは、大企業から中小企業へ事務負担が連鎖的に押し付けられるトリクルダウン効果を防ぐ狙いがあり、ドイツの供給網法運用で問題視された「書類作業の過剰」を欧州レベルで繰り返さないという政治的意思の表れと評価されています。

**包括的な義務の緩和は、責任の放棄ではなく、リスクの優先順位付けを企業経営の中核に組み込むことを求める再定義です。**

一方で、この合理化は義務の後退としても受け止められています。ビジネスと人権リソースセンターは、深層サプライチェーン調査が例外扱いとなることで、企業が人権侵害を「知らないままでいる」余地が広がると警告しています。オックスフォード大学の労働法研究者による分析でも、リスクベース・アプローチが適切に運用されなければ、チェックリスト型の形式的コンプライアンスに逆戻りする危険性が指摘されています。

それでも欧州委員会は、質の高いリスク評価と継続的なモニタリングこそが実効性を左右すると強調しています。年1回の静的な調査ではなく、苦情処理メカニズムや外部情報を活用した動的なリスク把握を行うことが、ガイドラインでも重視される見通しです。Fieldfisherなどの法律事務所は、リスクベース・アプローチは「やらなくてよい理由」ではなく、「なぜそのリスクを優先したのかを説明できるガバナンス能力」が問われると分析しています。

この義務内容の見直しにより、CSDDDは網羅性を競う規制から、判断力と説明責任を競う規制へと性格を変えました。企業にとっては負担軽減であると同時に、リスク評価の質そのものが監督当局や投資家から評価される時代に入ったことを意味しています。

産業界・NGO・専門家が示す評価の分岐点

2026年時点のCSDDDを巡る評価は、産業界、NGO、専門家の間で明確に分かれています。この分岐は、単なる賛否ではなく、サステナビリティ規制を「競争力の制約」と見るのか、「長期的価値創造の基盤」と見るのかという世界観の違いを反映しています。

欧州の産業界は、今回のオムニバス簡素化を概ね肯定的に受け止めています。BusinessEuropeなどの主要経済団体によれば、**対象企業の大幅削減とリスクベースへの再集中により、企業は限られた経営資源を最も深刻な人権・環境リスクに投入できるようになった**と評価されています。特にドイツでは、自国のサプライチェーン法運用で露呈した過度な書類主義の反省から、「実効性を伴わない包括規制は競争力を損なう」という認識が共有されています。

立場 主な評価 重視する論点
産業界 現実的な調整として歓迎 競争力、行政負担の軽減
NGO 骨抜きとの批判 被害者救済、深層供給網
専門家・学術界 効果に条件付き評価 実効性、意図せざる影響

これに対し、市民社会やNGOの反応は極めて厳しいものです。ビジネスと人権リソースセンターは、閾値引き上げによって義務対象企業が激減した点を「最も脆弱な労働者が再び規制の外に置かれる逆説」と指摘しています。さらに、国連人権高等弁務官事務所は、民事責任の調和規定が削除されたことで、**企業の説明責任が弱まり、救済の負担が被害者側に転嫁されるリスク**を公然と批判しています。

学術界の評価はより複雑です。オックスフォード大学の研究者らによる労働基準分析では、CSDDDの縮小が短期的には企業の遵守コストを下げる一方、後発開発途上国における労働環境改善のインセンティブを弱める可能性が示唆されています。特に、ティア1偏重が進むことで、企業が「知らなかったこと」に依存する形式的コンプライアンスへ回帰する危険性が指摘されています。

一方で、すべての専門家が悲観的ではありません。ノルウェー透明性法との比較研究では、規模要件よりもリスクベース運用の質が成果を左右することが示されており、**簡素化されたCSDDDでも、企業が主体的にOECDガイドライン水準を維持すれば実質的改善は可能**だと論じられています。評価の分岐点は、規制の文言そのものよりも、それをどう使うかという企業行動に委ねられていると言えます。

日本のSSBJ基準と欧州規制をどう整合させるか

日本のSSBJ基準と欧州規制をどう整合させるかという問いは、単なる開示フォーマットの違いを調整する作業ではありません。2026年時点で重要なのは、両者の制度目的とリスク評価の思想をどう一つの経営プロセスに統合するかという視点です。SSBJ基準はISSBのIFRS S1・S2に準拠し、投資家向けに財務的影響のあるサステナビリティ情報を精緻に開示することを求めます。一方、CSDDDは簡素化されたとはいえ、人権・環境への負の影響を予防・是正する行為規範としての性格を維持しています。

この違いを理解せずに個別対応を進めると、同じサプライチェーンリスクをSSBJでは「気候・人権が財務に与える影響」として評価し、欧州では「是正措置の優先順位付け」として別管理する二重構造に陥りがちです。国際会計基準審議会やOECDの議論でも、リスクと機会の特定プロセスを共通化し、そのアウトプットを報告とデューデリジェンス双方に使うことが最も効率的だと繰り返し指摘されています。

観点 SSBJ基準 欧州規制(CSDDD・CSRD)
主目的 投資家向けの財務的意思決定支援 人権・環境リスクの予防と是正
重要性評価 財務的マテリアリティ ダブルマテリアリティ
サプライチェーン 主にスコープ3の影響評価 リスクベースでTier1中心

実務上の整合ポイントは、ダブルマテリアリティ評価を起点にすることです。CSRD対応で実施する環境・人権リスクの洗い出し結果を、SSBJにおける財務影響分析へと接続すれば、一度の評価で日本と欧州の双方の要請に耐えうる基盤が構築できます。JETROの在欧日系企業調査でも、先行して欧州型評価を導入した企業ほど、日本の開示義務化への対応コストが抑えられていると報告されています。

また、CSDDDで強調されるリスクベースの優先順位付けは、SSBJ基準のシナリオ分析とも相性が良い点に注目すべきです。重大リスクに絞った定性的・定量的分析は、開示の説得力を高めるだけでなく、将来キャッシュフローへの影響を説明する材料になります。専門家の間では、欧州規制の緩和局面こそ、日本企業が両基準を“最小公倍数”ではなく“共通基盤”として設計できる好機だとの見方が広がっています。

在欧日系企業の対応事例から見える実務課題

在欧日系企業の対応事例を丹念に見ると、制度緩和そのものよりも、現場の実務に生じている「判断の難しさ」こそが最大の課題であることが浮かび上がります。2025年末にJETROが実施した在欧日系企業へのヒアリングでは、CSDDDの適用閾値引き上げを受けて、多くの企業が短期的には安心感を得た一方で、対応方針の再設計に強い戸惑いを感じている実態が確認されています。

オランダ拠点を持つ製造業A社では、既にCSRD対応の一環としてダブルマテリアリティ評価やサプライチェーン情報の整理を進めていました。CSDDDの直接適用対象から外れる可能性が高まった後も、同社は構築済みの体制を縮小せず、日本のSSBJ基準や投資家向け開示と統合する判断をしています。背景には、**「規制対応コストは sunk cost ではなく、資本市場との対話力を高める投資である」**という経営判断があります。欧州委員会やISS-Corporateが指摘するように、制度は簡素化されても、サステナビリティ情報の質に対する投資家の期待水準は下がっていないという認識が共有されています。

一方、ドイツ拠点の商社B社では、規制の延期と緩和が逆に組織内の混乱を招いています。本社側からは「直接義務がない以上、対応は最小限でよいのではないか」という意見が出る一方、現地の法律事務所や取引先からは、CSDDD義務を負う大手顧客企業が契約条項を通じてデューデリジェンス情報を求め続ける可能性が高いと助言されています。**法令遵守と顧客要請の間にあるグレーゾーン**が、現場担当者の説明責任を著しく重くしているのが実情です。

実務上の論点 在欧日系企業で顕在化している課題 対応の方向性
対象外判断 本社が「非対象」と理解し、現地との認識が乖離 顧客・投資家視点を含めた影響評価の共有
既存投資の扱い 構築済みDD体制を維持すべきかの判断 SSBJやCSRDとの統合による再活用
サプライヤー対応 要請継続の見込みが不透明で説明が困難 OECDガイドライン準拠の標準化

これらの事例から共通して見えるのは、CSDDD対応が単なる法務・コンプライアンスの問題ではなく、**本社と現地、短期と中長期、法令と市場要請をどう接続するかという経営管理上の課題**に変質している点です。特に規制の不確実性が高い局面では、OECD多国籍企業行動指針や国連ビジネスと人権指導原則といった国際標準に立ち返ることが、結果として説明コストと修正コストを抑えるという見方が、専門家の間で支配的になっています。

在欧日系企業の現場では今、CSDDDの「やる・やらない」を問う段階は既に過ぎ、**どの水準で、どの情報を、誰のために維持するのか**という実務設計が問われています。この設計力の差が、今後の欧州市場における信頼性と競争力を静かに分けていくことになりそうです。

AIとデジタル技術が変えるデューデリジェンスの実装

2026年のCSDDD実務において、AIとデジタル技術はデューデリジェンスを「書類中心の確認作業」から「常時稼働するリスク管理プロセス」へと変えつつあります。オムニバス簡素化パッケージによりリスクベースの優先順位付けが制度上も明確になったことで、限られたリソースをどこに集中させるかを判断する技術的基盤として、AIの役割が急速に高まっています。

特に注目されているのが、ネガティブニュース・スクリーニングと供給網可視化の自動化です。世界中の現地語メディアやSNS、NGOレポートを自然言語処理で解析し、サプライヤー名や地名と結びつけて異常兆候を検知する仕組みが普及しています。国連ビジネスと人権の指導原則を参照する専門家によれば、こうした常時モニタリングは年1回の自己申告型調査では把握できなかった突発的リスクへの初動対応を大きく改善すると評価されています。

また、ブロックチェーンを活用したデジタル・プロダクト・パスポートの実装も進展しています。欧州委員会が推進するDPP構想と連動し、原材料調達から製造、廃棄までの履歴を改ざん耐性のある形で保存することで、CSDDDにおけるデューデリジェンス証跡として活用できます。これはEUDRやバッテリー規則など他規制とのデータ再利用を可能にし、重複対応コストを抑える点でも実務的な価値があります。

技術領域 主な機能 実務上の効果
AIリスク検知 ニュース・SNS解析 突発的な人権・環境リスクの早期把握
DPP/ブロックチェーン 履歴の一元管理 監査証跡の信頼性向上と規制横断対応
AI推計モデル スコープ3補完 未回収データの実用的補完

市場調査会社Datamaranの分析では、これらのAIソリューションを導入した企業は、サプライチェーン関連データの収集・整理コストを最大95%削減できたと報告されています。これは単なる効率化にとどまらず、浮いたリソースを是正措置や取引先との対話に再配分できる点で、CSDDDが目指す実効性にも合致します。

一方で、2026年には「デジタル主権」とガバナンスの統合が新たな論点となっています。IBMなどが指摘するように、アルゴリズムの説明可能性やデータの所在管理を明確にしなければ、AI活用そのものが規制リスクになり得ます。AIを使うこと自体ではなく、どのような統治の下で使っているかが評価対象になるという認識が、欧州当局との信頼構築において不可欠になっています。

このように、AIとデジタル技術はCSDDD対応を単純化する道具ではなく、企業のリスク感知能力と説明責任を同時に引き上げる基盤です。2026年は、技術導入の有無ではなく、その実装の質が企業間の差を決定づける段階に入ったと言えます。

グローバル規制の相互作用と中長期的な戦略視点

2026年時点でのCSDDDを読み解く上で重要なのは、同指令を単体の規制としてではなく、複数のグローバル規制が相互に影響し合う構造の中で捉える視点です。**CSDDDの簡素化は規制後退を意味するものではなく、むしろ規制の役割分担と収束が進んだ結果**と理解する方が実態に近いと言えます。

欧州委員会の政策文書やAccountancy Europeの分析によれば、2025年以降の改革は「横断的プロセス規制はCSDDD、製品・テーマ特化型の実体規制は個別法」という整理を明確にする方向で進んでいます。これにより、企業は一つの包括的義務ですべてをカバーするのではなく、規制ごとに異なるリスク管理能力を問われる構造へと移行しました。

規制 主な焦点 企業への影響
CSDDD 人権・環境リスク管理プロセス ガバナンス体制と優先順位付け能力
EUDR 森林減少リスク製品 位置情報を含む証跡管理
EUFLR 強制労働関与製品 調達先の即時排除リスク

この相互作用の中で、日本企業にとっての中長期戦略は「どの規制に直接該当するか」ではなく、**規制横断で再利用可能なデューデリジェンス基盤を構築できているか**に集約されます。JETROが指摘するように、CSDDDの対象外となった在欧日系企業であっても、EUDRやEUFLRにより製品単位で市場アクセスを失うリスクは現実的です。

さらに重要なのは、欧州規制と日本国内のSSBJ基準との時間軸の重なりです。ISSBに整合した開示が2026年度から本格化することで、欧州で整備したリスク評価やスコープ3データが、日本の法定開示や投資家対話でそのまま活用される局面が増えていきます。**規制対応を地域別に分断する発想は、結果的にコストと説明リスクを増幅させます**。

FieldfisherやKPMG Lawの実務家は、今後5〜10年を見据えた戦略として、OECD多国籍企業行動指針や国連ビジネスと人権指導原則を“規制の共通言語”として採用する重要性を強調しています。個別規制は政治状況により変動しますが、これらの国際基準は各国立法の基礎に据えられ続けているためです。

中長期的に見れば、2026年のCSDDD再編は「守りのコンプライアンス」から「戦略的ガバナンス」への転換点です。**どの規制が厳しいかではなく、規制同士の隙間をどう埋め、将来の強化にも耐え得る構造を先に作れるか**が、グローバル市場での信頼と競争力を左右する要素になっていきます。

参考文献

Reinforz Insight
ニュースレター登録フォーム

ビジネスパーソン必読。ビジネスからテクノロジーまで最先端の"面白い"情報やインサイトをお届け。詳しくはこちら

プライバシーポリシーに同意のうえ