欧州でビジネスを展開している、あるいは欧州企業と取引関係を持つ日本企業にとって、サイバーセキュリティはもはやIT部門だけの課題ではなくなっています。近年、サイバー攻撃の高度化と地政学リスクの高まりを背景に、欧州の規制環境は大きく転換しました。中でもNIS2指令は、企業の経営判断そのものを問うルールとして注目を集めています。
NIS2は単なる技術基準ではなく、経営陣の法的責任、制裁金、サプライチェーン全体への影響までを含む包括的な制度です。対応が遅れれば、巨額の制裁金やレピュテーション低下といった経営リスクに直結します。一方で、適切に対応すれば、取引先や市場からの信頼を高める武器にもなります。
本記事では、NIS2指令の全体像から最新の改正動向、各国の実装状況、経営層に求められるガバナンス、技術的な実務対応、そして日本企業に特有の戦略的影響までを体系的に整理します。複雑に見えるNIS2を「自社の経営課題」として理解するための視点を得られるはずです。
NIS2指令とは何か:欧州サイバーセキュリティ政策の転換点
**NIS2指令(Directive (EU) 2022/2555)**とは、欧州連合(EU)が域内全体のサイバーセキュリティ水準を抜本的に引き上げるために策定した法的枠組みです。2016年に導入されたNIS1指令は、加盟国ごとの実施のばらつきや制裁力の弱さが指摘されてきました。NIS2はその反省を踏まえ、サイバー攻撃が国家安全保障や経済活動に直結するという現実を前提に、規制の実効性を大幅に強化しています。
2023年1月の発効、2024年10月の国内法化期限を経て、**2026年現在のNIS2は「準備すべき将来法」ではなく、実際に執行される現行法**として機能しています。欧州委員会やENISAによれば、対象企業は従来の重要インフラ事業者にとどまらず、エネルギー、運輸、医療、デジタル、製造など18の重要セクターに属する中規模・大規模企業へと拡大しました。
| 観点 | NIS1 | NIS2(2026年) |
|---|---|---|
| 適用範囲 | 限定的(OES/DSP) | 18セクターの中堅・大企業 |
| 適用方法 | 加盟国が個別指定 | 企業規模による自動適用 |
| 制裁 | 低水準・不統一 | 最大1,000万ユーロ又は売上高2% |
NIS2を「転換点」と位置づける最大の理由は、**サイバーセキュリティをIT部門の技術課題から、経営陣の法的責任へと引き上げた点**にあります。欧州委員会の公式説明でも、NIS2はコーポレートガバナンスの一部としてリスク管理を行うことを明確に求めています。経営者は対策の承認・監督だけでなく、自ら研修を受ける義務を負い、重大な過失があれば職務停止を含む制裁の対象となります。
また、NIS2は「事後対応型」から「レジリエンス重視型」への政策転換を象徴しています。ENISAの脅威分析によれば、2025年以降の攻撃はAIを活用した高速・大規模化が顕著で、侵入を完全に防ぐことは現実的ではありません。そのためNIS2は、侵害を前提に**迅速な検知、24時間以内の初動報告、事業継続能力の確保**を法的義務として組み込みました。
さらに2026年1月、欧州委員会はNIS2の「標的を絞った改正案」を公表し、複雑化した実務の簡素化と域内調和を進めています。これは規制緩和ではなく、**厳格さを維持したまま運用可能性を高めるための調整**です。NIS2は単なる指令ではなく、欧州が地政学・経済・技術の交差点で選択した、新しいサイバー安全保障モデルそのものだと言えます。
NIS1からNIS2へ:適用範囲と規制強度はどう変わったのか

NIS1からNIS2への移行で最も本質的に変わった点は、規制の対象が「限られた重要事業者」から「欧州経済を支える標準的な企業層」へと一気に拡大したことです。NIS1では、重要サービス提供者や一部のデジタルサービス事業者が、加盟国当局によって個別に指定される方式でした。そのため、同じ業種・規模でも国によって適用有無が異なるという不均一性が、欧州委員会やENISAによって繰り返し問題視されてきました。
NIS2ではこの構造が根本から改められています。**従業員数や売上高といった客観的な「サイズキャップ・ルール」に基づき、18の重要セクターに属する中規模・大規模企業は原則として自動的に適用対象**となりました。欧州委員会によれば、この変更により対象企業数はNIS1比で数倍規模に増加し、2026年時点では数万社が法的拘束を受けています。
| 観点 | NIS1 | NIS2(2026年) |
|---|---|---|
| 適用の決まり方 | 加盟国による個別指定 | 規模要件による自動適用 |
| 対象セクター | 限定的 | 18の重要セクターに拡大 |
| 企業数への影響 | 比較的少数 | 数万社規模に拡大 |
適用範囲の拡大と同時に、規制の「強度」も質的に変化しました。NIS1では努力義務に近かった要件が多く、違反時の制裁も加盟国任せで抑制的でした。一方、NIS2では**最大1,000万ユーロまたは全世界年間売上高の2%という高額な制裁金**が明示され、GDPRと同水準の抑止力を持つ枠組みへと進化しています。国際法律事務所や監査法人は、これを「IT規制ではなく経営リスク規制」と位置付けています。
さらに注目すべきは、企業区分の明確化です。NIS2は「主要事業体」と「重要事業体」という二層構造を導入し、規制強度を差別化しました。主要事業体には事前監督や定期監査が課される一方、重要事業体は原則として事後監督となります。2026年に提案された改正案では、スモール・ミッドキャップ企業に対して事後監督を基本とする方針が示され、**広く適用しつつも一律に締め付けない設計**が明確になっています。
このようにNIS2は、対象企業を大幅に広げながら、制裁金・監督手法・ガバナンス要件を体系的に強化しました。欧州委員会自身が述べている通り、これは「最低限の技術対策を求める指令」ではなく、**欧州全体のサイバーレジリエンスを底上げするための経済インフラ規制**へと進化した結果だと言えます。
2026年時点の改正動向:簡素化と調和を目指すEUの狙い
2026年時点におけるNIS2指令の改正動向を理解するうえで重要なのは、EUが規制強化のアクセルを緩めたのではなく、複雑化しすぎた実務を整理し、域内での調和を高める段階に入ったという点です。2026年1月に欧州委員会が公表した標的を絞った改正案は、施行後の実装状況を冷静に分析した結果として位置づけられています。
欧州委員会自身の評価や理事会文書によれば、NIS2は発効後わずか1年余りで「過剰適用」と「解釈のばらつき」という二つの課題を顕在化させました。特にDNSサービス事業者の定義が広すぎた結果、零細規模の事業者までが高度なガバナンス義務を負う事例が各国で報告され、規制の正当性そのものが問われ始めていたのです。
| 観点 | 従来のNIS2運用 | 2026年改正案の方向性 |
|---|---|---|
| 企業規模の扱い | サイズ要件に該当すれば一律適用 | スモール・ミッドキャップを新設し負担を調整 |
| 監督手法 | 事前・事後監督が混在 | 原則として事後監督へ集約 |
| クロスボーダー対応 | 各国当局と個別対応 | ENISA主導の単一調整モデル |
改正案の象徴的な施策が、スモール・ミッドキャップという新カテゴリーの導入です。従業員750人未満かつ売上高1億5,000万ユーロ未満の企業は、NIS2の対象であっても原則として重要事業体に分類され、定期的な立ち入り検査などの事前監督から解放されます。欧州委員会の影響評価では、この措置により約2万8,700社の行政負担が軽減されると試算されています。
もう一つの柱が、加盟国間の規制運用を揃えるための調和策です。ENISAの役割を強化し、国境を越えて事業を展開する企業に対しては、単一の報告プラットフォームを通じて各国当局への通知を完結させる構想が示されました。欧州サイバーセキュリティ機関によれば、これにより重複報告や相反する指示が減少し、インシデント初動の実効性が高まるとされています。
背景には、「よりシンプルで高速な欧州」を掲げる欧州全体の政策転換があります。専門家の分析では、過度に複雑な規制は中小企業の遵守率を下げ、結果として域内全体のレジリエンスを弱めるリスクがあると指摘されています。2026年改正案は、厳格さを維持しながらも実務に耐える設計へとNIS2を再調整する試みであり、EUがサイバーセキュリティを持続可能なガバナンスとして定着させようとする強い意思を映し出しています。
加盟国ごとの実装状況と法執行の現実

2026年現在、NIS2指令の加盟国ごとの実装状況は一様ではなく、現場ではいわゆる「パッチワーク状態」が続いています。欧州委員会やENISAの整理によれば、国内法化を完了し、かつ実効的な運用に入っている加盟国は全体の約3分の2にとどまっています。この差異は、複数国で事業を展開する企業にとって、コンプライアンスの不確実性という新たな経営リスクを生んでいます。
重要なのは、法令の文言そのものよりも、各国当局がどの程度のスピードと厳格さで法執行に踏み出しているかです。同じNIS2に基づく規制であっても、登録義務の運用、監督手法、初期段階での制裁姿勢には明確な温度差が見られます。
| 加盟国 | 国内法化・運用状況 | 2026年時点の法執行の特徴 |
|---|---|---|
| ベルギー | 2024年4月に国内法成立、早期に運用開始 | 未登録企業への是正要求・制裁を本格化 |
| ドイツ | 2025年11月施行、対象企業約3万社 | 即時制裁は抑制、ガバナンス中心の監督 |
| フランス | 既存制度(OIV/OSE)と統合中 | 段階的移行で行政指導を重視 |
ベルギーは象徴的な事例です。国内当局であるベルギーサイバーセキュリティセンターが運営するSafeonweb@workポータルへの登録期限はすでに経過しており、2026年には未登録や虚偽申告に対する法執行が現実のものとなっています。これはNIS2が「努力義務」ではなく、実効的な規制であることを企業に強く印象付けました。
一方、ドイツでは連邦情報セキュリティ庁が、初期段階では高額制裁よりも経営陣の監督体制や内部統制の実態を精査する姿勢を示しています。専門家によれば、これは企業数が非常に多いドイツ特有の事情を踏まえた、現実的なアプローチとされています。
さらに注目すべきは、国内法化が遅れた加盟国に対する欧州委員会の侵害手続きです。2024年末に23カ国が対象となり、2026年に入って各国が一斉に法整備を加速させました。この結果、2026年は「移行期」ではなく、実質的な執行フェーズ元年として位置づけられています。企業は、自国の法制だけで安心するのではなく、事業拠点ごとの当局の運用実態を継続的に把握することが不可欠です。
経営陣の個人的責任とは何か:ガバナンスへの影響
**NIS2指令がもたらした最大の変化の一つは、サイバーセキュリティを経営陣個人の法的責任として明確化した点です。** 従来、情報セキュリティはIT部門やCISOに委ねられがちでしたが、2026年現在のNIS2体制下では、その姿勢自体がガバナンス上のリスクと見なされます。
欧州委員会やENISAの解説によれば、NIS2第20条は「管理機関」、すなわち取締役会や経営会議レベルに対し、サイバーリスク管理措置の承認と継続的監督を直接義務付けています。形式的な承認印では足りず、経営陣が内容を理解し、実装状況を把握しているかが監督当局の審査対象となります。
この点が象徴的なのが、経営陣向けトレーニングの義務化です。2026年時点では、欧州の大手法律事務所や監査法人が「取締役専用NIS2ブリーフィング」を提供しており、取締役がサイバーリスクを理解していないこと自体が過失と評価される環境が整いつつあります。
| 観点 | NIS2における要求 | ガバナンスへの影響 |
|---|---|---|
| 意思決定 | リスク管理措置の正式承認 | 取締役会議事録が証拠として確認される |
| 監督 | 実施状況の継続的モニタリング | IT部門への丸投げが否定される |
| 能力 | 経営陣自身の教育・訓練 | 知識不足が過失認定につながる |
さらに深刻なのは、重大な過失が認定された場合の個人的制裁です。NIS2では、企業への制裁金とは別に、経営者個人が一時的な職務停止、いわゆるエグゼクティブ・バンを受ける可能性が明文化されています。これはGDPRには見られなかった、極めて強力なガバナンス介入です。
専門家の間では、この仕組みが経営行動そのものを変え始めていると指摘されています。ホワイト&ケースなどの分析によれば、欧州企業ではサイバーリスクが財務リスクや法務リスクと同列で取締役会アジェンダに組み込まれ、投資判断やM&Aのデューデリジェンスにも影響を与えています。
**結果としてNIS2は、サイバーセキュリティを「守りのIT」から「経営責任の中核」へと再定義しました。** 経営陣が主体的に関与しなければならないという構造そのものが、欧州企業のガバナンス文化を底上げしつつあり、日本企業にとっても取締役の責任範囲を再考する強い示唆を与えています。
制裁金と非金銭的ペナルティが企業価値に与える影響
NIS2指令における制裁は、単なる罰金リスクではなく、企業価値そのものを左右する経営変数として位置づけられています。2026年時点では、制裁金の水準がGDPRと同様にグローバル売上高連動型となり、欧州事業に限定されない財務インパクトが顕在化しています。特に上場企業の場合、制裁発表と同時に株価が短期的に下落するケースが複数確認されており、サイバーセキュリティが財務リスクとして市場に織り込まれる段階に入ったと言えます。
金銭的制裁の上限は事業体区分によって明確に定義されていますが、投資家や金融機関がより重視しているのは、その背後にあるガバナンス評価です。欧州委員会やENISAが示す公式見解によれば、制裁額は違反の「結果」ではなく、「経営陣が果たすべき監督義務を怠った兆候」として解釈される傾向が強まっています。
| 観点 | 金銭的制裁 | 非金銭的ペナルティ |
|---|---|---|
| 直接的影響 | 罰金支払い、特別損失計上 | 公表命令、遵守命令 |
| 中長期影響 | 信用格付けへの影響 | 取引停止、認可取消リスク |
| 市場評価 | 株価下落要因 | レピュテーション毀損 |
特に深刻なのが非金銭的ペナルティです。違反事実の公表命令は、サイバーインシデント対応の巧拙とは無関係に、「統治が機能していない企業」というレッテルを市場に与えます。ホワイト&ケースやPwCなどの国際法律事務所は、NIS2違反の公表がM&Aデューデリジェンスや取引先の第三者リスク評価に直接影響する点を指摘しています。
さらに、経営陣個人への職務停止措置は、企業の継続性リスクとして評価されます。CEOや取締役が一時的に職務を離脱する事態は、事業計画の遅延や内部統制の再構築を招き、結果として企業価値のディスカウント要因となります。これは保険ではカバーできない「経営空白リスク」として、2026年現在、多くの機関投資家が注視しています。
重要なのは、制裁が発動される前段階から価値毀損が始まっている点です。規制当局による是正命令や監査強化は、追加コストと経営リソースの分散を引き起こします。NIS2対応の遅れは、罰金額以上に、成長機会の逸失と信頼低下という形で企業価値を削る。この認識を持てるかどうかが、2026年以降の欧州市場での競争力を大きく左右します。
インシデント報告義務の実務:24時間ルールの壁
NIS2指令におけるインシデント報告義務の中でも、実務担当者と経営層の双方にとって最大の難関となっているのが、いわゆる「24時間ルール」です。これは単なる時間制限ではなく、企業の意思決定プロセスそのものの変革を迫る要件です。**技術的な検知能力よりも、組織としての即応力が問われる点に本質的な難しさがあります。**
ENISAや欧州委員会の解釈によれば、この24時間は「インシデントを完全に把握してから」ではなく、「重大なインシデントを覚知した時点」から起算されます。つまり、原因分析や被害範囲の特定が未完了であっても、当局への第一報を出す必要があります。PwCやWhite & Caseなどの専門家も、ここで企業が陥りがちなのは「誤報を恐れて報告を遅らせること」だと指摘しています。
| 報告段階 | 期限 | 実務上のポイント |
|---|---|---|
| 早期警告 | 24時間以内 | 速報性重視。事実と推測を明確に分離 |
| インシデント通知 | 72時間以内 | 初期評価と暫定的な影響分析を記載 |
| 最終報告 | 1ヶ月以内 | 根本原因と再発防止策を網羅 |
実際、2025年から2026年にかけてENISAが支援した演習事例では、初動対応に失敗した企業の多くが「誰が24時間以内の報告判断を下すのか決まっていなかった」ことが共通点として挙げられています。SOCが技術的に検知しても、法務や経営層の承認プロセスに時間を要し、結果として期限を超過するケースが後を絶ちません。
この課題に対し、先行企業は「不完全でも出す」ことを前提とした報告テンプレートを整備しています。例えば、被害の有無が未確定の場合でも「現時点では調査中」と明示したうえで報告し、72時間以内の通知で内容を補完する運用です。ENISAの技術ガイダンスでも、初期報告における不確実性の存在自体は問題視されないとされています。
さらに2026年の改正案では、ランサムウェアに関する経済的情報の報告が想定されており、財務部門や経営層の即時関与が不可欠になります。**24時間ルールは、サイバーセキュリティをIT部門の責務に留めないというNIS2の思想を、最も端的に体現する要件**と言えるでしょう。これを乗り越えられるかどうかが、企業の実務成熟度を測る試金石となっています。
ENISA技術ガイドラインと13の核心的セキュリティ対策
ENISAが2025年6月に公開した技術実施ガイダンスは、NIS2指令で求められる「適切かつ均衡の取れた対策」を抽象論に終わらせず、監査や当局評価で実際に参照される実務基準へと落とし込んだ点に最大の意義があります。170ページに及ぶこの文書は、2026年現在、多くの加盟国当局や監査人にとってデファクトスタンダードとなっており、企業側も無視できない存在です。
ガイダンスの中核は、セキュリティ対策を13のテーマに整理した点にあります。これは単なるチェックリストではなく、経営・技術・人の要素を横断的に結びつける設計思想を反映しています。ENISA自身も「技術対策だけではNIS2の要求を満たさない」と明言しており、ガバナンスと運用の連動が前提とされています。
| 領域 | 代表的な対策テーマ | 実務上の着眼点 |
|---|---|---|
| ガバナンス | 方針策定・リスク管理 | 経営陣承認の証跡と定期見直し |
| 運用 | インシデント対応・BCP | 机上計画でなく訓練実績の有無 |
| 技術 | アクセス制御・暗号化 | MFAや鍵管理の一貫性 |
| 組織 | HRセキュリティ・教育 | 入退社時の権限管理と教育効果 |
13の対策の中でも、2026年時点で特に当局の注目が集まっているのが、脆弱性管理とパッチ適用です。ENISAの投資・成熟度調査によれば、依然として約3割の企業が重大な脆弱性修正に3か月以上を要しており、これがランサムウェア被害の温床になっていると分析されています。ガイダンスでは、CI/CD環境での継続的テストや、少なくとも2年に一度のポリシー見直しが求められています。
また、サプライチェーン・セキュリティも13項目の中で独立したテーマとして扱われています。SolarWinds事件やオープンソース汚染の教訓から、ENISAは供給業者の選定方針、契約条項、ソフトウェア資産の可視化を強く重視しています。SBOMという言葉は前面に出ていないものの、実質的には同等の透明性を求める内容であり、第三者リスク管理の成熟度が直接評価対象になります。
人的要素に関する要求も見逃せません。サイバーハイジーンや教育は形式的なeラーニングでは不十分とされ、役割別・権限別に行動変容が起きているかが重視されます。ENISAの脅威ランドスケープでも、AIを用いた高度なフィッシングが従来型訓練の効果を低下させていると指摘されており、訓練内容の更新そのものが評価対象となっています。
13の核心的セキュリティ対策は、最低限の防御ラインであると同時に、企業の成熟度を測る共通言語でもあります。監査対応のために文書を整える発想ではなく、自社のリスクプロファイルに照らしてどこが弱点かを説明できるかどうかが、2026年以降のNIS2実務における分水嶺となっています。
サプライチェーン・リスク管理とSBOMの重要性
2026年のNIS2指令において、サプライチェーン・リスク管理は中核的な位置づけに引き上げられています。自社の防御がどれほど堅牢であっても、外部ベンダーやオープンソースに起因する侵害が全体を破壊し得るという現実が、規制要件として明確化されたためです。ENISAは技術実施ガイダンスの中で、供給業者の選定、契約、継続的監督を単なる努力目標ではなく、経営管理の一部として扱うべきだと示しています。
この文脈で注目されているのがSBOMです。SBOMはソフトウェアを構成する部品表であり、どのコンポーネントが、どのバージョンで、どこから調達されているかを可視化します。NIS2やENISAの文書ではSBOMという用語を直接用いない場合もありますが、**ソフトウェア資産台帳の厳密な管理と、オープンソース部品の検証結果共有を求める要求は、事実上SBOMの整備を前提としています。**
2021年のSolarWinds攻撃や、2025年に相次いだnpmエコシステムへの侵害では、攻撃点が最終被害者企業ではなく、その供給元にありました。ENISAの調査によれば、2025年時点で企業の47%が供給網経由の侵害を最大の懸念事項として挙げています。この数字は、サプライチェーンがもはやIT調達の問題ではなく、事業継続そのもののリスクであることを示しています。
| 観点 | SBOM未整備 | SBOM整備後 |
|---|---|---|
| 脆弱性対応 | 影響範囲の特定に時間を要する | 影響コンポーネントを即時特定 |
| インシデント報告 | 72時間以内の詳細化が困難 | 構成情報を即座に提出可能 |
| 取引先評価 | ベンダー説明に依存 | 客観的な構成証跡を確認 |
SBOMの価値は、平時よりも有事に際立ちます。NIS2が求める24時間以内の早期警告や72時間以内の詳細報告では、影響を受けたソフトウェアやサービスを即座に説明できる体制が不可欠です。SBOMが存在しない場合、調査は属人的になり、結果として報告遅延が経営リスクへと直結します。
さらに重要なのは、SBOMが契約とガバナンスを結び付ける点です。欧州の実務では、NIS2水準のセキュリティ条項としてSBOMの提供や更新を契約条件に組み込む動きが広がっています。これは単なる技術資料ではなく、**供給業者が透明性と説明責任を果たしているかを測る指標**として機能します。
日本企業にとっても、この潮流は無縁ではありません。欧州拠点のNIS2対応に加え、国内では経済産業省のSCS評価制度が始動します。SBOMを軸としたサプライチェーン管理は、規制対応コストではなく、国際的な信頼を獲得するための戦略的投資として捉えるべき段階に入っています。
AI時代の脅威ランドスケープとNIS2の関係
2026年現在のサイバー脅威ランドスケープは、AIの本格的な実用化によって質的に変化しています。ENISAの脅威ランドスケープ報告書によれば、攻撃者は生成AIを用いて標的選定、侵入、横展開、情報窃取までを自動化し、従来は数週間を要した攻撃準備が数日単位に短縮されています。この変化は、インシデントの発生頻度だけでなく、検知までの猶予時間そのものを奪っている点に本質的な危険性があります。
特に深刻なのが、AI強化型ソーシャルエンジニアリングです。2025年には、全世界のソーシャルエンジニアリング攻撃の8割以上にAIが関与したとされ、実在の経営幹部の音声を再現するディープフェイクによる送金詐欺も確認されています。こうした攻撃は単なる技術的対策では防ぎきれず、組織的な対応能力、すなわちレジリエンスが問われます。NIS2がサイバーセキュリティを経営課題として位置づけた背景には、まさにこのAI時代の脅威認識があります。
| AI時代の主要脅威 | 特徴 | NIS2との関係 |
|---|---|---|
| AI生成フィッシング | 高精度・個別最適化により人の判断を欺く | 教育・訓練義務とガバナンス責任を強化 |
| 脆弱性の高速武器化 | ゼロデイの悪用までの時間短縮 | 24時間以内の早期警告体制を前提化 |
| 自動化ランサムウェア | 侵入から暗号化までの即時実行 | BCP・バックアップ管理を必須要件化 |
ランサムウェアも依然として最大の脅威であり、2025年には被害件数が前年比12%増加しています。攻撃者はAIを活用し、バックアップ構成や復旧手順を事前に探索した上で攻撃を仕掛けるため、表面的な対策では事業継続が困難になります。これに対しNIS2は、インシデント対応や事業継続計画を法的義務として明示し、対応の遅れ自体をコンプライアンス違反として扱います。
欧州委員会やENISAが強調しているのは、AI対AIの構図において人間の意思決定が最大のボトルネックになるという点です。そのためNIS2では、経営陣への定期的な訓練義務や監督責任を課し、現場任せのセキュリティ運用を許容しません。AI時代の脅威ランドスケープを正しく理解することは、NIS2対応の出発点であり、単なる法令遵守を超えた競争力の源泉となりつつあります。
日本企業への戦略的影響と経産省SCS評価制度との連動
欧州で事業を展開する日本企業にとって、NIS2指令への対応は単なる域外規制への順守ではなく、グローバルなサプライチェーンにおける信頼性を可視化する戦略的要件へと変化しています。2026年現在、欧州委員会やENISAの実務運用が本格化する中で、NIS2への適合度は取引継続や新規受注の前提条件として扱われる場面が増えています。
この欧州の潮流と明確に連動しているのが、経済産業省が2026年度から運用を開始するSCS評価制度です。METIが公表している制度構築方針によれば、本制度は企業間取引におけるサイバーセキュリティ対策をスター評価で可視化し、発注側がサプライヤーを選定する際の判断材料とすることを目的としています。欧州でNIS2が果たしている役割を、日本国内向けに制度化したものと位置づけると理解しやすいでしょう。
両制度の思想的な共通点は、技術対策の有無ではなく、経営としてセキュリティを統治できているかを評価軸に据えている点にあります。PwCやENISAの分析でも、NIS2における最大の変化はガバナンスとサプライチェーン管理の義務化であると繰り返し指摘されていますが、SCS評価制度の★4以上で求められる要件も、まさに同じ領域に集中しています。
| 観点 | NIS2指令 | SCS評価制度 |
|---|---|---|
| 評価の主眼 | 経営陣の責任とリスク管理体制 | 取引に耐える組織的対策の成熟度 |
| サプライチェーン | 取引先のセキュリティ管理を義務化 | 取引先管理の有無を評価項目化 |
| 評価手法 | 当局による監督・監査 | 第三者評価・自己評価の組み合わせ |
特に重要なのは、日本企業が「欧州向けはNIS2、国内向けはSCS」と分断して考えると、二重投資に陥るリスクが高い点です。ENISAの技術ガイダンスで整理されたリスク管理、インシデント対応、サプライチェーン統制といった中核要素を共通基盤として整備すれば、欧州と日本の双方で説明可能な体制を構築できます。実際、2026年春以降、国内SIerやコンサルティング各社が「NIS2対応を起点にSCS評価取得までを一体で支援する」サービスを開始していることは象徴的です。
中堅・中小企業にとっては負担増と映るかもしれませんが、視点を変えれば、国際水準のセキュリティを備えていることを公式に証明できる初めての機会でもあります。欧州のNIS2と日本のSCS評価制度を戦略的に接続できる企業ほど、2026年以降のサプライチェーン再編の中で優先的なパートナーとして選ばれていく可能性が高いと言えるでしょう。
NIS2実装の障壁と今後見据えるべきNIS3の論点
NIS2は法制面では成熟段階に入りましたが、2026年時点の実務では複数の深刻な障壁が顕在化しています。最大の課題は、要件そのものの厳しさよりも、組織がそれをどう解釈し、日常業務に落とし込むかという点にあります。ENISAや欧州委員会の評価によれば、特に中堅・中小規模の事業体では、NIS2が自社に求める具体的行動を理解できていないケースが依然として多いとされています。
この背景には、NIS2が技術対策だけでなくガバナンス、教育、供給網管理までを包含する包括的規制であることがあります。結果として、IT部門だけでは対応できず、経営層・法務・調達部門を横断した体制構築が不可欠になりますが、これが現場では大きな摩擦を生んでいます。学術研究でも、意識と理解の欠如が他の障壁を増幅させる主要因であると指摘されています。
実装上の障壁を整理すると、次のような構造が浮かび上がります。
| 障壁の類型 | 具体的な内容 | 実務への影響 |
|---|---|---|
| 組織的課題 | 経営陣の理解不足、責任分界の曖昧さ | 意思決定の遅延、形式的対応 |
| 技術的課題 | レガシーIT・OT環境への適用困難 | 統制の空白、例外管理の常態化 |
| 経済的課題 | 投資対効果の説明困難 | 最低限対応に留まる傾向 |
| 制度的課題 | 加盟国ごとの差異 | 多国展開企業の運用複雑化 |
特に深刻なのが、サプライチェーン領域です。2025年のENISA調査では、企業の約47%が供給網経由の侵害を最大リスクと認識しており、NIS2遵守の中で最も難易度が高い分野とされています。委託先のセキュリティ成熟度を把握し、契約や監査に反映させるには、従来の調達慣行そのものを変革する必要があります。
こうした実装上の歪みを受け、専門家の間ではすでにNIS3を見据えた議論が始まっています。欧州委員会が2027年までに実施予定の効果評価では、加盟国ごとの解釈差が最大の論点になると見られています。そのため、GDPRと同様に「指令」ではなく「規則」として直接適用する枠組みへの移行を求める声が、産業界と規制当局の双方から上がっています。
また、次期枠組みではOTや産業制御システムに特化した要件の明確化、規模は小さくても社会的依存度が高い事業体の包含が検討対象になるとされています。これは、サイズ基準だけではレジリエンスを測れないというNIS2運用から得られた教訓です。
NIS2実装の壁は、同時にNIS3の設計思想を形作る材料でもあります。2026年を生きる企業にとって重要なのは、現行要件を満たすこと自体ではなく、規制が進化する前提でガバナンスと意思決定の仕組みを鍛え続けることです。その姿勢こそが、次の規制段階における最大の競争優位となります。
参考文献
- European Commission:NIS2 Directive: securing network and information systems
- PwC Japan:欧州NIS2指令に向けた日本企業の備え
- ENISA:Technical Implementation Guidance on Cybersecurity Risk Management Measures
- BankInfoSecurity:European States Spin Wheels on Cybersecurity Directive
- Global Policy Watch:European Commission Proposes Targeted Amendments to NIS2 to Simplify Compliance
- ENISA:ENISA Threat Landscape 2025
- 経済産業省関連報道:キヤノンITSが経産省「サプライチェーン強化に向けたセキュリティ対策評価制度」対応アセス開始
