「人的資本経営」という言葉が定着する一方で、実際に何から手を付けるべきか悩んでいる経営者や人事担当者の方は多いのではないでしょうか。特に近年、「従業員ウェルビーイング」は福利厚生やメンタルヘルス対策の枠を超え、企業価値そのものを左右するテーマとして注目を集めています。
働き方改革や労働人口減少、価値観の多様化が同時進行する日本において、従業員の心身の状態は生産性やイノベーション、さらには採用力やブランド評価にまで影響を及ぼすようになりました。もはやウェルビーイングは「優しい会社づくり」の話ではなく、経営戦略の中核に位置付けるべき投資対象です。
本記事では、最新の統計データや研究結果、先進企業の事例をもとに、日本企業における従業員ウェルビーイングの現在地を整理します。制度が形骸化する理由や、雇用形態ごとに異なる不安の正体、テクノロジー活用の最前線までを俯瞰することで、自社で実践するための具体的なヒントを得られる構成です。
人的資本経営が求めるウェルビーイングの再定義
人的資本経営の文脈において、ウェルビーイングは従来の「健康であること」から大きく再定義されつつあります。かつてはメンタルヘルス不調の予防や福利厚生の充実といった守りの施策として位置付けられてきましたが、2025年以降は人材の価値そのものを左右する戦略変数として扱われるようになっています。人をコストではなく資本と捉える以上、その資本の質を規定するウェルビーイングは、経営戦略の中核に置かれる必然性があるからです。
この変化を裏付けるのが、働き手側の意識の急速な転換です。パーソル総合研究所の調査によれば、「ウェルビーイング」という言葉の認知度は2025年時点で27.1%に達し、わずか2年で倍増しています。注目すべきは、この数値がエンゲージメントの認知度を上回った点です。組織への貢献意欲よりも、個人としての幸福や人生の質が優先され始めていることを示しており、企業と個人の関係性が再編フェーズに入ったことを示唆しています。
人的資本経営が求めるウェルビーイングは、主観的な満足感だけではありません。健康状態、心理的安全性、自律性、成長実感といった複数の要素が相互に作用し、結果として生産性や創造性、離職率、さらには企業価値にまで波及する構造的な概念です。世界保健機関が示す「身体的・精神的・社会的に良好な状態」という定義は、いまや企業経営の現場で具体的な指標とアクションに翻訳され始めています。
| 従来の捉え方 | 人的資本経営における再定義 |
|---|---|
| 不調を防ぐための健康管理 | 価値創出を最大化するための投資 |
| 福利厚生・人事施策の一部 | 経営戦略・非財務情報の中核 |
| 測りにくい主観的概念 | 測定・開示・改善が可能な経営指標 |
特に重要なのは、ウェルビーイングが投資家や市場からも評価対象になっている点です。人的資本開示の流れの中で、従業員の健康や働きがいは非財務情報として企業価値に組み込まれています。コンサルティングファーム各社の分析でも、ウェルビーイングへの戦略的投資が中長期的な企業価値向上と相関することが繰り返し示されています。従業員が持続的に力を発揮できる状態を設計できるかどうかが、競争優位の分水嶺になりつつあります。
この再定義が示す本質は明快です。ウェルビーイングとは「配慮」ではなく「設計」の対象であり、人的資本経営における成果創出の前提条件です。個人の幸福と組織の成長を対立概念として捉える時代は終わり、両者を同時に高める統合モデルこそが、これからの経営に求められています。
「守り」から「攻め」へ変わる健康経営の役割

健康経営は長らく、長時間労働の是正やメンタル不調者の早期発見といったリスク管理、いわば「守り」の文脈で語られてきました。しかし2025年以降、その役割は明確に変質しています。健康経営は、企業価値を能動的に高める「攻めの経営戦略」として再定義されつつあります。
この転換の背景には、人的資本経営の浸透があります。人材をコストではなく資本と捉える考え方が主流化する中で、従業員の健康状態や心理的充足度は、資本の質そのものを左右する要素になりました。デロイト トーマツ グループも、ウェルビーイングを非財務情報の中核と位置付け、投資家との対話における重要指標だと指摘しています。
特に象徴的なのが、働き手側の意識変化です。パーソル総合研究所の「はたらく人のウェルビーイング実態調査 2025」によれば、「ウェルビーイング」という言葉の認知度は27.1%に達し、従来重視されてきたエンゲージメントを上回りました。これは、組織への忠誠よりも、自身の人生の質を軸に働く人が増えていることを示しています。
| 観点 | 守りの健康経営 | 攻めの健康経営 |
|---|---|---|
| 主目的 | 不調や法的リスクの回避 | 生産性と企業価値の向上 |
| 施策の性格 | 一律・最低限 | 戦略的・選択的投資 |
| 経営との関係 | 人事・労務領域に限定 | 経営戦略と直結 |
攻めの健康経営では、健康施策が成果創出のレバーとして扱われます。例えば、厚生労働省の調査で示されたように、ストレスチェックの集団分析を行う事業所は75.4%にまで拡大しました。重要なのは、そのデータを単なる報告で終わらせず、業務設計やマネジメント改善に結び付けられるかどうかです。健康データは、人材配置や意思決定の精度を高める経営データへと昇格しています。
また、健康経営が攻めに転じることで、採用や定着にも直接的な影響が生まれます。契約社員における「会社の将来性」への不安が前年比で急増したという調査結果は、健康や安心感がキャリア選択と強く結び付いている現実を示しています。健康経営は、企業のビジョンや成長性を従業員に伝える経営コミュニケーションの一部でもあるのです。
このように、健康経営はもはや不調者を減らすための防御策ではありません。人材の潜在力を引き出し、変化の激しい環境下でも持続的に価値を生み出すための攻めの基盤として、その役割は決定的に変わりつつあります。
データで見る日本の労働環境とメンタルヘルスの実態
日本の労働環境とメンタルヘルスの実態は、最新データを見ることで初めて立体的に理解できます。厚生労働省が公表した2024年調査によれば、ストレスチェック制度を実施している事業所のうち、職場単位での集団分析を行っている割合は75.4%に達し、前年から6ポイント以上上昇しました。制度そのものは定着段階を越え、組織改善にどう活かすかという次の局面に入っていることが読み取れます。
一方で、集団分析の結果を実際の職場環境改善に活用した事業所は76.8%にとどまり、前年から微減しています。データは取得しているものの、具体的な人員配置の見直しやマネジメント改善に結びつかない「活用の壁」が依然として存在しています。専門家の間では、数値を解釈し行動に落とし込むための現場リテラシー不足が大きな要因と指摘されています。
| 指標 | 最新データ | 示唆されるポイント |
|---|---|---|
| ストレスチェック集団分析実施率 | 75.4% | 制度運用は成熟段階に移行 |
| 分析結果の職場改善活用率 | 76.8% | データ活用力に課題 |
| 月80時間超残業者の割合 | 1.5% | 長時間労働は減少傾向 |
雇用形態別に見ると、メンタルヘルスの課題は一様ではありません。契約社員では「仕事量」や「仕事の質」に加え、「会社の将来性」への不安が38.8%と急増しました。これは前年から24ポイント以上の上昇であり、雇用の不安定さが心理的負荷として顕在化していることを示しています。派遣労働者では雇用の安定性に対する不安が54.7%と最も高く、対人関係やハラスメントへの懸念も目立ちます。
長時間労働対策についても、興味深い逆説が確認されています。月80時間を超える残業者の割合は減少している一方で、該当者が医師による面接指導を受けた割合は12.6%と前年の倍に増加しました。厚生労働省のデータによれば、残業の「量」は減っても、特定の人に業務が集中し健康リスクが深刻化している可能性が示唆されています。
これらの数値が示すのは、日本の労働環境が改善と新たな課題を同時に抱えているという現実です。形式的な制度対応から一歩進み、雇用形態や業務構造の違いを前提とした、より精緻なメンタルヘルス施策が求められる段階に来ています。
ストレスチェック制度が直面する活用の壁

ストレスチェック制度は実施率の面では成熟期に入りつつありますが、2025年時点で最大の課題は「活用」にあります。厚生労働省の2024年労働安全衛生調査によれば、ストレスチェックを実施した事業所のうち75.4%が集団分析まで行っています。一方で、その結果を職場環境改善に実際に活かした事業所は76.8%にとどまり、前年から微減しています。制度は回っているが、行動に変わっていないという構造的な停滞が浮き彫りになっています。
この背景には、データの「解釈」と「意思決定」を担う主体が曖昧なまま運用されている現実があります。集団分析の結果は人事部門に集約されるものの、現場マネジャーには十分に共有されず、共有されたとしても「評価や責任追及につながるのではないか」という心理的抵抗が先立ち、建設的な議論に発展しにくいケースが少なくありません。産業医や外部専門家が関与しても、単発の助言にとどまり、継続的な改善サイクルが設計されていない企業も多いです。
特に顕著なのが、数値の優先順位付けができていない問題です。ストレス要因は「仕事量」「対人関係」「将来不安」など複数項目に分かれますが、どこから手を付けるべきかの判断基準がなく、結果として「様子見」になる傾向があります。パーソル総合研究所の専門家も、ストレスチェックは単独で完結する施策ではなく、マネジメント施策や業務設計と接続して初めて意味を持つと指摘しています。
| 段階 | 実施状況 | 主な壁 |
|---|---|---|
| 実施 | 年1回のチェックを実施 | 形式化・形骸化 |
| 分析 | 集団分析を実施 | 読み解き人材の不足 |
| 活用 | 改善施策に反映 | 権限・時間・心理的抵抗 |
もう一つの壁は、雇用形態や職種ごとのストレス構造の違いを十分に反映できていない点です。例えば契約社員では「会社の将来性」への不安が急増しているにもかかわらず、正社員と同一の改善施策が適用されるケースがあります。集団分析は平均値を見るためのものではなく、差分を捉えるためのものですが、その本質が運用の中で見失われがちです。
さらに、ストレスチェックが「問題の発見ツール」にとどまり、「対話の起点」として使われていない点も活用を阻んでいます。数値だけが一人歩きし、なぜその結果になったのかを現場で語り合う機会がなければ、従業員の納得感も行動変容も生まれません。デロイト トーマツ グループの人的資本経営に関する見解でも、非財務データは対話と意思決定を通じて初めて価値を持つとされています。
ストレスチェック制度が直面する活用の壁は、制度設計そのものではなく、企業側のマネジメント力と対話力に起因しています。データを取ること自体が目的化した瞬間に、制度は止まります。逆に言えば、データを共通言語として現場と経営をつなぐことができれば、ストレスチェックはウェルビーイング経営の中核的インフラへと進化する可能性を秘めています。
雇用形態別に広がるウェルビーイング格差の構造
雇用形態の多様化が進む日本の労働市場では、ウェルビーイングの格差が個人の意識差ではなく、制度や立場の違いから生まれる構造的な問題として顕在化しています。2024年から2025年にかけての厚生労働省や研究機関のデータは、正社員と非正規雇用の間に存在する心理的・社会的な分断を明確に示しています。
特に注目すべきは、非正規雇用層に集中する「将来不安」と「心理的安全性の欠如」です。契約社員では「会社の将来性」への不安が38.8%に達し、前年比で24ポイント以上も急増しました。景気の不透明さやAIによる業務代替、ジョブ型雇用への移行が進む中で、契約更新の可否が見えにくい立場が強いストレス源となっています。
派遣労働者の場合、最大の関心事は「雇用の安定性」であり、半数を超える水準に達しています。加えて、対人関係やハラスメントに関する不安も高く、組織に長期的に守られているという感覚を持ちにくい点が、ウェルビーイングを下支えする心理的基盤を弱めています。
| 雇用形態 | 主なストレス要因 | ウェルビーイング上の特徴 |
|---|---|---|
| 正社員 | 仕事量・責任の重さ | 負荷は高いが将来不安は相対的に低い |
| 契約社員 | 会社の将来性、契約更新 | 不安の急増が心理的消耗を招く |
| 派遣労働者 | 雇用の安定性、人間関係 | 組織内での孤立感が強い |
| パートタイム | 業務量、顧客対応 | カスタマーハラスメントの影響が大きい |
パートタイム労働者では、顧客や取引先からのクレームが主要なストレス要因として浮上しています。サービス業を中心に、いわゆるカスタマーハラスメントが日常的に発生しやすく、立場の弱さから十分なサポートを受けられないケースも少なくありません。これは個人の耐性の問題ではなく、雇用形態によって防御手段が異なることを示しています。
一方、正社員は業務量や責任の重さに起因する疲弊が中心であり、不安の質が異なります。非正規雇用層が抱えるのは「今ここ」の負荷ではなく、「この先どうなるのか」という時間軸の長い不安であり、同じウェルビーイング施策では吸収できません。
パーソル総合研究所の調査によれば、働き手が感じる幸福感は、待遇そのものよりも「自分の立場が尊重されているか」「情報が公平に共有されているか」に強く影響されます。雇用形態別の格差を是正するには、福利厚生の拡充だけでなく、将来見通しや役割期待を丁寧に伝える経営コミュニケーションが不可欠です。
雇用形態別に広がるウェルビーイング格差は、放置すれば組織全体の生産性や信頼を蝕みます。誰が不幸せかではなく、なぜその立場にいると不安が増幅されるのかを理解することが、人的資本経営の次の実践段階だと言えます。
長時間労働是正の裏で進むケア介入の高度化
長時間労働の是正は、日本企業の労働環境において確実に進展しています。厚生労働省の2024年調査によれば、月80時間を超える時間外労働が発生した労働者の割合は1.5%と、前年から0.7ポイント減少しました。これは働き方改革関連法の浸透や、企業側の管理強化が一定の成果を上げていることを示しています。
しかし、その裏側で見逃せない変化が起きています。**長時間労働者の絶対数は減っているにもかかわらず、医師による面接指導を受ける労働者の割合が急増している**のです。同じ調査では、月80時間超の残業があったすべての月で医師面談を受けた労働者の割合が12.6%に達し、前年の6.1%から倍増しました。
この逆説的な動きは、ケア介入の質と密度が大きく変化していることを示唆します。単に残業時間を削減するだけでは不十分で、発生してしまった高負荷状態に対して、より迅速かつ専門的な対応が求められるフェーズに入ったと言えます。
| 指標 | 前年 | 最新値 |
|---|---|---|
| 月80時間超の残業者割合 | 2.2% | 1.5% |
| 医師面談実施割合 | 6.1% | 12.6% |
背景には二つの構造的変化があります。一つは、企業と労働者双方のリスク認識の高度化です。産業医面談は形式的な義務対応から、**健康リスクを未然に断ち切るための戦略的介入**へと位置付けが変わりつつあります。日本産業衛生学会などが示す見解でも、早期介入が休職・離職リスクを下げる点が強調されています。
もう一つは、業務負荷の集中です。残業削減の過程で業務が特定の人材に集まり、その結果として心身の疲労が深刻化しやすくなっています。この場合、時間管理だけでは問題を捉えきれず、医師や産業保健スタッフによる個別判断が不可欠になります。
重要なのは、**長時間労働是正とケア介入の高度化がセットで進行している**という点です。数値上の残業削減に安堵するのではなく、誰にどのような負荷が残っているのかを見極め、専門家が介入する体制を整えることが、これからのウェルビーイング経営の現実的な課題となっています。
研究が示すエンゲージメントとマネジメントの関係
研究の蓄積により、ワーク・エンゲージメントと成果の関係は「やる気が高ければ成果が出る」という単純な図式では説明できないことが明らかになっています。特に近年注目されているのが、エンゲージメントとパフォーマンスの関係を左右する要因としてのマネジメントの質です。
リクルートワークス研究所が2024年に発表した企業組織データを用いた研究では、ワーク・エンゲージメントは単体でも業務成果に正の影響を与える一方で、その効果はマネジャーによる関与のあり方によって大きく増幅または減衰することが示されました。具体的には、支援的な関わりや明確な役割提示、建設的なフィードバックが高い職場においてのみ、エンゲージメントの高さが実際の成果に結びついていたのです。
言い換えれば、エンゲージメントは成果の「原材料」であり、マネジメントはそれを価値に変換する「加工工程」だと言えます。個人の熱意があっても、方向性が曖昧で裁量と支援のバランスが取れていない環境では、努力は分散し、空回りするリスクが高まります。
| マネジメント水準 | エンゲージメントの状態 | パフォーマンスへの影響 |
|---|---|---|
| 高い | 高い | 成果が顕著に向上し、持続性も高い |
| 低い | 高い | 意欲はあるが成果に結びつきにくい |
| 高い | 低い | 一定の成果は出るが伸びしろが限定的 |
この結果が示唆するのは、従業員個人に対するモチベーション向上施策だけでは不十分だという現実です。エンゲージメントを高める施策と同時に、それを受け止め、活かすマネジメント基盤を整えなければ投資対効果は最大化されません。
特に日本企業では、中間管理職がプレイングマネジャーとして過度な業務負荷を抱え、部下育成や対話に十分な時間を割けないケースが多く見られます。研究結果は、こうした構造的問題がエンゲージメントの価値を毀損している可能性を示しています。
人的資本経営の文脈において重要なのは、エンゲージメントを測定すること自体ではなく、その数値を意味ある成果に変換できるマネジメント能力を組織として保有しているかという点です。エンゲージメントとマネジメントの相互作用を理解し、両輪で設計することが、これからの組織成果を左右する決定的な分岐点となります。
心理的安全性を左右するオフィス環境と働く場
心理的安全性は、上司や同僚との関係性といった「人」の問題として語られがちですが、2025年以降の研究では、オフィス環境そのものが心理的安全性を左右する重要な要因であることが明確になっています。働く場の設計は、発言のしやすさ、失敗への許容度、ひいては組織全体の学習能力にまで影響を及ぼします。
パーソルファシリティマネジメントが約1,000名のワーカーを対象に行った2024年末の調査によれば、固定席中心のオフィスよりも、フリーアドレスを導入している職場の方が、心理的安全性が高い傾向が確認されています。背景には、物理的な席配置が生み出す無意識の圧力があります。常に同じ席で上司の視線を背負う環境は、発言や挑戦を抑制しやすいのに対し、席を選べる環境は心理的な緊張を緩和します。
| オフィス形態 | 心理的影響 | 行動面での傾向 |
|---|---|---|
| 固定席 | 監視感・縄張り意識が生じやすい | 発言の慎重化、関係の固定化 |
| フリーアドレス | 自律性・開放感が高まりやすい | 偶発的対話、相談行動の増加 |
ただし、フリーアドレスであれば自動的に心理的安全性が高まるわけではありません。重要なのは、ABW(Activity Based Working)の考え方に基づき、業務内容や心理状態に応じて場所を選べることです。集中が必要なときの静かなブース、雑談や相談がしやすいオープンスペース、短時間で気分転換できるリフレッシュエリアなど、選択肢の多さそのものが「守られている感覚」につながります。
心理学の自己決定理論でも示されているように、人は自律性が満たされるとストレス反応が低減し、他者との協働に前向きになります。オフィス環境は、この自律性を日常的に支えるインフラです。席を選べない、音や視線から逃げ場がないといった環境は、知らず知らずのうちに心理的余裕を奪い、結果として沈黙や同調を生み出します。
さらに、ハイブリッドワークが定着した現在、オフィスは単なる作業場所ではなく「関係性を再構築する場」へと役割を変えています。毎日出社しないからこそ、出社したときに安心して話せる空間設計が重要になります。経営学者エイミー・エドモンドソンが指摘するように、心理的安全性は学習と適応の前提条件です。その前提を支える基盤として、オフィス環境への投資は、人的資本経営の中でも即効性の高い施策と言えます。
働く場を見直すことは、制度や研修よりも先に、日常の行動を静かに変えます。発言の数、相談のタイミング、挑戦への一歩。そのすべてが、オフィス環境という「沈黙のメッセージ」によって形づくられているのです。
Femtech・Sleeptechが変える企業ウェルビーイング
企業ウェルビーイングの高度化を象徴する存在が、FemtechとSleeptechです。これらは従来、個人の私的領域とされてきた健康課題を、**人的資本の質を高める経営変数として再定義**しました。2025年以降、ウェルビーイング施策は「一律の健康管理」から、「課題特化型テクノロジーによる精密投資」へと進化しています。
Femtechは、女性特有の健康課題と経済合理性を結び付けた点で転換点となりました。経済産業省の推計では、月経や更年期、不妊治療などに起因する日本全体の経済損失は年間約3.4兆円規模とされています。こうした損失を可視化し、企業課題として扱う動きが急速に広がりました。
| 領域 | 主な課題 | 企業にもたらす効果 |
|---|---|---|
| Femtech | 月経・妊活・更年期 | 離職防止、集中力・継続就業の向上 |
| Sleeptech | 睡眠不足・睡眠の質 | 判断力、生産性、事故リスク低減 |
例えば、LIFEMが提供するルナルナ オフィスは、セミナー動画や医療機関と連携したオンライン診療を通じて、健康課題の理解と行動変容を促します。このサービスを導入する企業の中から、健康経営優良法人2025やホワイト500に多数選出された事実は、**フェムテックが評価制度と結び付く経営インフラになりつつある**ことを示しています。
一方のSleeptechは、睡眠を「管理不能なブラックボックス」から「測定・改善可能な資源」へと変えました。睡眠不足によるプレゼンティズムが創造性や意思決定の質を下げることは、近年の睡眠科学でも繰り返し示されています。NTTデータとナインアワーズの共創プログラムは、ウェアラブルデータを用い、睡眠の深さやリズムを客観的に捉える点が特徴です。
FemtechとSleeptechに共通する価値は、健康課題を個人の努力論から切り離し、**データに基づく組織的支援へ転換した点**にあります。これにより、企業は従業員の多様なコンディションを前提としたマネジメントが可能になります。人的資本経営が進む現在、これらのテクノロジーは福利厚生ではなく、競争力を左右する戦略装備として位置付けられています。
先進企業に学ぶ自律型ウェルビーイング経営の実践
自律型ウェルビーイング経営を実践する先進企業に共通するのは、制度や施策を「与える」発想から、従業員一人ひとりが自ら選び、行動できる「余白」を設計している点です。管理や統制を強めるほど人は受動的になりますが、近年の研究や実践事例は、**自律性こそがウェルビーイングと成果を同時に高める鍵**であることを示しています。
丸井グループの取り組みは、その象徴的な例です。同社は異動やプロジェクト参加において手挙げ制を基本とし、本人の意思を起点にキャリアを形成する仕組みを整えています。自己決定理論で知られるエドワード・デシとリチャード・ライアンの研究によれば、自律性が満たされる環境では内発的動機づけが高まり、持続的なパフォーマンスにつながるとされています。丸井グループでは、社員の「好き」や関心が新規事業に結びつき、エンゲージメントと事業成果が同時に向上する好循環が生まれています。
一方、味の素グループは自律性を「健康行動の選択」にまで広げています。栄養や食の科学に基づき、従業員が自分の体調や働き方に応じて食事や生活習慣を選べる環境を整備しています。特に共食を通じたコミュニケーション施策は、心理的安全性の向上に寄与することが示唆されており、パーソル総合研究所の調査でも、職場の安心感が高いほど主観的幸福度が高い傾向が確認されています。
| 企業 | 自律性を高める仕組み | ウェルビーイングへの効果 |
|---|---|---|
| 丸井グループ | 手挙げ制による異動・プロジェクト参加 | 内発的動機づけの向上とイノベーション創出 |
| 味の素グループ | 食・栄養を軸にした健康行動の自己選択 | 心理的安全性と持続的な健康行動の定着 |
重要なのは、これらの企業がウェルビーイングを人事部門だけの施策に閉じていない点です。経営ビジョンや事業戦略と結び付け、従業員が「自分の選択が組織や社会に価値を生む」と実感できる設計を行っています。**自律型ウェルビーイング経営とは、自由放任ではなく、選択の質を高めるための戦略的な環境づくり**だと言えます。
2026年に向けて、労働市場の流動化や価値観の多様化が進む中、先進企業の実践は明確な示唆を与えています。従業員を守るためのウェルビーイングから、従業員と共に価値を創るウェルビーイングへ。その転換点において、自律性を軸に据えた経営が、企業の競争力を左右する重要な分水嶺となりつつあります。
参考文献
- パーソル総合研究所:「はたらく人のウェルビーイング実態調査 2025」を発表
- 厚生労働省・労働政策研究・研修機構:メンタルヘルス対策に取り組む事業所割合は63% ――2024年労働安全衛生調査結果
- リクルートマネジメントソリューションズ:ワーク・エンゲイジメントがパフォーマンスに与える影響
- パーソルファシリティマネジメント:心理的安全性の実態調査 結果発表
- PR TIMES(株式会社LIFEM):法人向けフェムテックサービス『ルナルナ オフィス』導入企業が健康経営優良法人に認定
- NTTデータグループ:スリープテックホテルを軸に睡眠課題解決を目指す企業共創プログラムを開始
